【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第49回◎三山喬 民主主義の〝軍〟を目指して(4) 

【タイトル画像】1953年4月、防衛大学校(当時、保安大学校)に入学し、整列する一期生=神奈川県横須賀市。写真=共同通信イメージズ

槇イズムの浸透と旧軍 

防衛大学の4年間は私の人生の基盤を形成して呉れた貴重な期間だった。同期生との固い絆は卒業後60年経過しても不変である。しかし、寄る年波には勝てず既に約4分の1は鬼籍に入った。
小原台で過ごした4年間は私の青春であり、いつ思い返しても懐かしい。 

 私が防大五期生の山田修(87歳)のことを知ったのは、そんな内容のブログを偶然にも見つけたからだった。一期生をはじめ防大草創期OBの同期会はすでに解散したり活動を休止したりして、証言者探しは難航していたが、首都圏に住むこのブログ筆者は、対面での聞き取りを快く承諾してくれた。 

 陸上自衛隊を六十歳の定年まで勤め上げ(退官時の階級は一佐)、その後は八十五歳まで関東電気保安協会で働いた。 

 初代学校長・槇智雄については、その言葉「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者の義務)とともに上記ブログでも言及し、卒業生の間で彼のスピリッツ「槇イズム」は「深く浸透している」と説明する。 

「槇先生の言葉を、私たち学生がじかに聞く機会は、入学式や卒業式などに限られていましたが、『軍人である前に良き社会人たれ』ということをよくおっしゃっていたと記憶します。穏やかな人格者、教育哲学者という印象で、先生を批判する人はまずいなかったと思いますよ。そもそも当時の教官で、『軍人たれ』なんて言うタイプはいなかった。いや、ひとりだけ日本史の先生に国粋的な人がいて、文官なのに学生舎に泊まりに来たりしてましたが、本当にその先生ひとりだけでした」 

防大生時代の山田修氏。第五期生の卒業アルバムから

 とはいっても、『毎日新聞』連載の単行本『青春の小原台』(四方洋、飯島一孝著)によれば、当時の自衛隊・防大をめぐっては、さまざまな外圧が存在した。とくにGHQの反共工作に秘密裏に協力した旧軍人、元陸軍参謀本部作戦課長・服部卓四郎(※)らのグループは再軍備に影響力を行使して、「性懲りもなくかつての栄光を夢見る人」だったという。吉田茂がもし服部らの警察予備隊幹部就任を受け入れていたならば、「槇智雄の校長就任もなかったし、『紳士たれ』と説き続けるマキイズムもなかったかもしれない。もっと軍人精神をたたきこむ学校になっていただろう」と同書の著者たちは言う。 

※はっとり・たくしろう(1901-60年) 1939年5月に起こったノモンハン事件のときの関東軍作戦主任参謀で、作戦の積極拡大を主張したが、ソ連軍の大規模攻勢によって大打撃を被った。 

 実際、初代の副校長・鈴木桃太郎はこの本の取材で「(私の)本心は軍人精神をたたきこもうと思っていましたよ。槙先生の考えは、あくまで表面です。二千年近い日本の国体を守る、この精神を教えこむのが防大の教育であり、学生たちの共通項だと考えていました」と、リベラルな槇イズムへの反感を明かしている。 
 この時代は何よりも左派・革新からの再軍備批判が強かったため、防大関係者の回想に決まって出てくるのは、外出する防大生に「税金泥棒」と暴言を吐く人がいたことや、作家の大江健三郎が東大在学中の1958(昭和33)年、『毎日新聞』に「防衛大学生は若い世代の恥辱である」と書き、論争を引き起こした逆境の思い出だ。 

 山田の記憶にもこれらの出来事は鮮明に残っているのだが、保守層の内部にも存在した旧軍派・戦後リベラル派の確執は、あまり表面化することもなく、山田もさほど覚えていないという。 
 ただひとつ、例外的に山田も記憶しているのは、入学した58年に防大生のダンスパーティーが国会で問題視されたことだった。質問者は旧陸軍参謀の自民党衆議院議員・辻政信(※)。槇智雄の死後、友人や知人、防大の教え子らが編んだ『槇乃実 槇智雄先生追想集』で何人かがこの出来事に触れている。 

※つじ・まさのぶ(1902-?) 服部卓四郎同様、ノモンハン事件のときの関東軍作戦主任参謀で、作戦に深く関わる。戦時中のシンガポールでの虐殺事件などへの関与から責任を問う声があるなか、戦後は国会議員となった。1961年、東南アジアへの視察中、行方不明となる。 

 問題になったのは前年の暮れ、東京駅のステーションホテルでダンス同好会が開いた初のダンスパーティーで、そこに自身の娘が招待されたことをきっかけに辻が「どなり込んで」来たという。その怒りは会場での抗議では収まらず、衆議院内閣委員会に槇を呼びつける事態に発展した。 

 辻議員が(略)「腕もあらわな半裸に等しい女性を抱きかかえて、天下の士官候補生が踊りまわるなど狂気の沙汰である」という意味のことをまくし立て(略)所信を問われた(槇)先生が、「ダンスをやめさせる心積もりは全然ないこと、ダンスは立派な社交を教えるため是非必要であること」等を申し述べたところ(略)社会党席の方から「そうだそうだ‼」と盛んな拍手が起こり、(略)辻議員が「そんな防大なら、なくしてしまえ‼」と怒鳴ったら、また社会党席から「そうだそうだ!やめてしまえ‼」と拍手と野次が湧き起って、この一件は無事落着したのだそうです。 
 この社会党議員のあざやかな変り身応援のくだりになると皆笑いころげて聞いたものです(略)。 

「有名な話ですよ」。山田もそう笑った。 
 五期生の山田は一期生とは入れ違いで防大に入ったため、実際に面識を得るのは自衛隊に入隊してからだが、「とくに一期生の方々は自分たちこそが自衛隊を築き上げていく」という気概に溢れていた印象があるという。 
 ただし彼自身は、と言えば「とくに国防に使命感を持って防大に入ったわけではなく、家庭の経済的事情から浪人を許されず、第一志望の東工大に落ちたため、先に合格が決まっていた防大に進むよう父親に命じられたのです」と振り返る。 
 昔も今も「何となく」という志望動機が多いことは、『青春の小原台』に説明されているが、山田の時代にも明確に自衛官を志していた友人はほんのひと握り。山田自身は、卒業を目前にした時期に差しかかっても進路に迷い続けたという。 
「自衛隊での人生に、夢を描きにくかったことが原因です。私の代は約五十人も任官拒否者がいたのです。ちょうど高度成長が始まって、好条件の就職先が増えた事情もありました」 

 政治的に右派だったわけでもなく、60年安保闘争は「毎晩テレビにかじりつき」見ていたという。「学生たちと政府、どっちが正しいかわからなかったけど、心情的には年齢の近い若者が果敢に警官隊に突っ込んでいく姿を見て、学生に共感していました。槇先生には『防大生は勉学が本分。絶対に参加しちゃいかん』と言われていましたけど」 
 万が一、戦争が起こったら──。そんな想定は自衛官になったあとも、ほとんどしなかったという。かと言って、将官に出世したいという気持ちも持てずにいた。 

使命感の先に死生観は生まれる

 私はふと、自分が三十五年前、「死生観」をテーマに防大を取材しようとしたものの、リサーチに手応えがなく、断念したことを口にした。山田は「いや、いざとなったら命をかける気持ちは持っているんですよ」と、いつのころからか、そういった境地になっていたことを説明した。 
「私は防大で勉強をさせてもらい、そのことで国家や自衛隊には感謝の気持ちを持っています。だから万が一のとき、命をかけるのは当然のことだと思うようになりました。自衛隊の仲間同士でも、そんな話はしないですけどね」 
 前述した追悼集『槇乃実』には、防大一~六期生計十人の座談会があり、そこではアナポリス米海軍士官学校に伝わる「ドント・ギブアップ・ユア・シップ(船を棄てるな)」という言葉が、槇の口癖だったことが取り上げられ、これこそが「槇イズム」の真髄ではなかったか、ということで卒業生たちの意見は一致した。 

 一期生の出席者がこんな逸話を紹介した。陸上の幹部候補生学校の校長と学生課長から「防大卒業生が死生観をもっていない」という苦情が伝えられたときのこと。槇はきっぱりとこう答えたという。 
「私は防衛大学校において死生観を教える必要を感じていない。ここで学生に教えたいことは自分たちに与えられたデュティ(義務)をべストをつくして果たすことだけなのです。ただそのプロセスにおいて、それは運悪く災害派遣でも死ぬ場合もあるだろうし、いわんや砲火の中での自分のデュティにベストをつくしておれば、これは何が起こるかわからない。しかしいずれにしても、最大のファイトを燃やしてベストをつくす。私はこれを教えることで今は、十分だと思う」 
 つまり命を懸けることは、目の前の職務を全力で果たすこと、その強い気持ちの先に自然に現れる覚悟だというのである。 

 四期生の発言者は、政治と軍の関係、あるいはシビリアンコントロールというテーマでも、槇は特段話をしていないと振り返った。その代り「遵法精神または正義に服従する意思なくして真の民主制度は成立しない」、あるいは「服従のみ存在して自由や個性の尊重が認められないならば、それは奴隷的関係であり(略)、自由のみ存在して服従のない社会があるとすれば、無秩序混乱の社会である」といった言葉を残しているのだと。 
 槇イズムは、そういった紳士としての姿勢、生き方のなかに軍人精神は宿るというものだった。 

防大キャンパスにある初代学校長・槇智雄の胸像

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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