【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第56回◎三山喬 山村工作隊の記憶(4)

【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ 

 共産党の山村工作隊活動は、奥多摩湖底に沈んだ旧小河内村(現・奥多摩町)以外の地域でも見られたのか。わずか数年で党自らが「過ち」と打ち切った武装闘争路線は、断片的な記録や証言は残っているものの、その全体像は漠として摑みづらい。ただ小河内での活動に一年ほど遅れ、関西の党組織が奈良・和歌山県境部の山岳地で工作隊活動を試みたことは、関係者が明かしている。 

紀州大水害への救援活動 

 2004年に刊行された脇田憲一著『朝鮮戦争と吹田・枚方事件 戦後史の空白を埋める』にその詳細な記述がある。本の前半で扱われる吹田・枚方両事件は、1952(昭和27)年6月24日から翌日、大阪でほぼ同時に発生した騒乱事件を指す。前者は大阪大学豊中キャンパスから出発したデモ隊が、国鉄吹田操車場や吹田駅に向かって行進し、途中米軍将校の車や警察車両、沿道の派出所などに投石や火炎瓶攻撃をした。逮捕者は200人以上に及んだ。一方の枚方事件は、共産党員や在日朝鮮人の活動家が、民間に払い下げられ米軍向け砲弾工場になる予定だった旧陸軍工廠の設備を時限爆弾で爆破、当該企業の責任者と目された人物(誤認)の自宅を襲撃した事件だ。 

『朝鮮戦争と吹田・枚方事件 戦後史の空白を埋める』(2004年、明石書店)

 著者の脇田は当時十七歳。定時制高校に通いながら共産党の地下組織「中核自衛隊」のメンバーとなり、枚方事件で検挙された。そして約一年後、保釈中の立場で和歌山・奈良県境での活動に向かったのだった。 
 本の後半にある第2部「和歌山・奈良山村工作隊」にその内容は詳しい。 
 きっかけは1953(昭和28)年7月の豪雨で発生した紀州大水害だった(死者・行方不明者は和歌山県側で計1046人、奈良県側で37人にのぼった)。共産党系の労組や各種団体は総評系の労働組合などとともに交通の寸断された山奥に入り込み、延べ数千人規模で救援活動を展開した。 
 大阪・守口市の「定時制細胞」に属していた脇田は、党守口市委員会が派遣する水害救援隊に参加して、計5人で高野山の現地本部に行き、そこから約半日、車両の通れない山道を踏破して奈良県・野迫川[のせがわ]村の救援活動に加わった。 
 約20戸の家屋が土砂に埋まった北股という集落で、若者らは連日、土砂の掻き出しに従事した。医療班や文化工作隊(被災者を歌や踊りで慰めるグループ)なども続々来援した。 
 当初は手放しで感謝された活動だが、時間の経過に連れ、救援隊と村人の関係は微妙になってくる。警察からの情報で救援隊の大半が共産党員だと伝わって、村の有力者たちが警戒するようになったのだ。かたや救援隊の内部でも、国や県の復旧の手ぬるさを批判する「政治工作」の必要性が叫ばれるようになり、やがて「党の上部の意向」として、救援隊員から志願者を募り「独立遊撃隊(山村工作隊)」をつくる話になってゆく。 

 救援隊の村当局攻撃が表面化すると、村人の反応が急に変わるのがわかった。北股の活動も昼は被災者の家の土砂の掻き出しであったが、夜は各戸にビラを入れたり、若い青年たちに池津川(役場の所在地)の「村民大会」参加の働きかけをした(略)。「やっぱり『赤』が正体をあらわした」という陰口が隊員の耳にも入ってきた。岡田(守口隊のリーダー)は親しくなった青年たちに「村民大会」参加を誘ったが誰も来なかった。参加したのは救援隊員だけという結果になった。これを契機に北股も居心地が悪い空気が漂ってきた。

 やがて救援隊の撤収後も一部が工作隊員として残ることが正式決定する。そのときの説明では、食料は堺市の基地から随時補給され、武装闘争のための武器も中国から船で運び込まれるとのことだった。8月下旬、片道約40キロの距離にある和歌山・花園村に県境各山村から総勢約30人が集結し、隊の結成式が行われた。 
 脇田らの班はこの翌月、野迫川村の立里[たてり]という地区で区長をしていた共産党シンパの協力を得て、自活生活する山小屋の建築を許された。メンバーらはここで『むしろ旗』という機関紙をつくったり、近くの鉱山やダム建設現場に赴いて政治工作活動を展開したりした。ところが、約束されていた大阪からの物資補給はほとんどなく、武器支援どころか、日々の食料さえ事欠くようになる。救援隊員が残した食材を食べ尽くすと、工作隊内部の人間関係は次第に刺々しくなっていった。 

 鉱山労働者の宿舎ではオープンに迎えられ、演芸会を開くなど関係が深まったが、一般の村人には冷ややかに扱われた。小銭を手渡され、「もうビラは配らないでくれ」と申し出る住民もいた。駐在所の巡査が各家庭を歩き、警戒を呼び掛けた影響が大きかった。 
 脇田ともうひとりは11月、残る「奈良隊」のメンバーも翌年1月には現地を撤収した。結局、警察沙汰になるような出来事は、このエリアでは起きなかった。 

 脇田の著書は必ずしも時系列で綴られてはいない。奈良・和歌山県境地帯には1970~80年代、あるいは2000年代にもぽつりぽつりと足を運び、自身の足跡を脇田は辿っている。山小屋の建築を認めてくれた共産党シンパの元区長、北殿地区で水害救援隊を受け入れた当時を知る自民党の村議、自分たちの撤収後、共産党から村議選に挑んだ住民など、さまざまな人物を訪ね歩き、そのような描写も織り交ぜた構成になっている。

御坊市ホームページ「紀州大水害」から。崩壊寸前の野口橋
御坊市ホームページ「紀州大水害」から。日高川堤防の復旧作業 

 工作隊が山を降りて一年余の間に、党中央の主導権は所感派から国際派へと移り(※)、1955年の六全協(第六回全国協議会)で、所感派が主導した武装闘争路線は打ち切られた。脇田はこの結末について「(党の分裂を解消、再統一を果たしたという点で)両者主要幹部の利害は一致したのである。極左冒険主義という抽象的表現は(党上層部が)責任を回避する都合のよい『自己批判』用語だったのである」と失望を記している。

 ※所感派=日本共産党内の主流派で暴力革命路線を推進。国際派=コミンフォルムの指導に従うことを主張した少数派。 

 もはや私が理想とした革命党のイメージは崩壊し、私自身もあわせて崩れそうになる不安感に襲われていた。毎日の『アカハタ』配りは空虚そのものであった。したがって、軍事組織解体も、六全協決議も「何が今さら自己批判だ」と反発していた。 

脇田本への共感と批判 

 一方、脇田の本から遅れること八年、この同じ奈良・和歌山の山村工作隊活動にかかわった別の人物が『道 遥かなり奥吉野 共産党老党員の回想録』という本を発表し、脇田の著作を手厳しく批判した。筆者は当時八十八歳の元(奈良県)桜井市議・芝房治。脇田よりひと回り近く年長者で、紀州水害の当時は、被災地の約半分、奈良県側を統括する共産党南地区委員長だった。大阪などから大挙乗り込んできた党員らと異なり、彼らを迎え入れる側にいた人物だ。 
 芝が問題視したのは脇田の本の個別の事実関係より、全体を貫くトーンだった。 

 住民の心情と乖離した武装闘争路線。それ自体を「大きな過ち」と見る視点は芝も共有した。ただその路線が1955年の六全協において「極左冒険主義」と全否定されたこと、脇田はこれを〝末端党員の切り捨て〟と感じたが、芝は共産党を再建するうえで必要なプロセスであったと認識する。つまり党のいわゆる「50年問題」(六全協までの党分裂と武装闘争路線)によって共産党そのものを否定するか、その態度を私的体験による「共産党への怨念」と見るかという立場の違いだった。 
 芝は、工作隊活動の「辛酸」に対しては自身も体験したと共感を示しつつ、一方で地元奈良勢は物資補給など当てにできず支持者の支援と自活が大原則だったと振り返る。 
「泊まる宿も無く野宿したこと、空腹に耐えられず畑に捨てられたサツマイモの屑を集めて食したこともありました」 

 その一方、自分たちは紀州水害以前からこの山岳地帯に入り込み、「村民を金縛りにしている半封建的地主支配からの村民の解放、そのために山林労働者を中心とする村民への啓蒙活動」を目指してきたと強調する。 
「今にして思えば」と芝は、中小の地主も入り交じる山村の複雑な階層構造を当時は十分に理解せず、その後に顕在化していった人口減や山林の荒廃にはより抜本的な改革が必要であったと〝自己批判〟。それでも大阪勢が「山村工作隊の遊撃的活動を絶対的なものとする軍事的組織を最重視」したことを、奈良勢との大きな相違点だったと指摘する。 
 そしてその一例として、十津川村では水害救援活動のなかから民主診療所の設置運動が立ち上がり、多くの村民の支持を受け五年間、地域の医療拠点の役割を果たしたことを挙げている。 
 武力革命のための拠点づくり──。脇田らが五ヵ月の試みで挫折した無謀な山村工作隊活動に、芝は自分もその渦中にいたと認めつつ、奈良勢はそれ以前も以後も、山村住民と真摯に向き合ってきた、そう自負を語るのだ。そして本を締めくくる第五章に「林業と山村集落の再生を考える」という題で長年考え続けてきた論考を提示する。 
 芝は『道 遥かなり奥吉野』を書き上げた暁には、面識のない脇田ととことん話し合うつもりでいた。しかしその脱稿直前に脇田は死去。対面は実現しなかったという。 

 脇田氏とは、もう論争できませんが、私はこの本の「はじめに」の言葉に 
「痛恨の山村工作隊への思いを馳せ、遥かなる奥吉野への道を、再び改めて超えて行こうと思います」 
 と述べたように、これが私の道です。それは残された人生を、林業と山村の再生に役立てたいという思いからであり(略)、私の自己批判でもあります。 

『道 遥かなり奥吉野 共産党老党員の回想録』(2012年、奈良新聞社) 

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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