【ジャーナル】探究心来たる、亦た楽しからずや◎第2回/三井田孝欧さん(下) 

ヒトの偉いところは物事を探究するところ。好奇心から、真理を追求するための探究心へと突き進む。都合のいいことに対象テーマは無数にある。研究の成果は、人類への貢献になることもあるし、ご本人以外にはまったく無意味という場合もある。前者だからよく、後者だからダメとは思わない。大事なのは探究する心。第2回は前回の続きで、納豆研究のトリコになった三井田孝欧[みいだ・たかお]さん。 

納豆の野望。〝ナットワーク社会が到来する 

――全国に無数に存在する納豆の中で、三井田さんのイチオシは?

 では発表しましょう。イチオシは新潟県魚沼市の大力納豆の「100%北海道大粒」です。都内では上野御徒町の「吉池」などで手に入ります。 
 納豆の味を左右するのが、大豆と発酵です。大豆には、空気中の窒素を地中に取り込む働きがあり、昔は、田んぼの周りに化学肥料の窒素剤の代わりとして大豆を蒔いていました。田んぼのあぜ道に枝豆を植えるのも、枝豆が成熟すると大豆になるからで、つまり米どころは、枝豆どころであり、大豆どころでもある。 
 そして米どころは水もおいしい。米、水、大豆は切り離せません。大力納豆が作られる新潟県魚沼市も、この三拍子そろった土地です。ただ、現在の大力納豆は北海道産の大豆「ゆきほまれ」を使っています。個人的に好きなのは大袖振大豆(北海道産)ですが、豆単体では甲乙つけがたい。そこでポイントになるのが、乾燥した大豆を戻す水。魚沼は雪国で水が豊富でおいしい。だからこそ、納豆もおいしく仕上がるんです。 

三井田さんイチオシの大力納豆「100%北海道大粒」。納豆にとって水のよしあしは死活問題だ 

 あとは味を決めるのが、大豆を蒸すか、茹でるのか、という製法の違い。いまは、ほとんどの納豆屋が大豆を蒸して納豆をつくっています。しかし昔はお湯で茹でたあとに、年季の入った納豆屋のオヤジがヤカンに入れた納豆菌をドボドボドボと大豆にかけてつくるのが主流でした。 
 昔の納豆の方がうまかったと振り返る人がたくさんいます。それは、納豆菌だけではなく、ほかの雑菌も入っていたからかもしれません(笑)。 
 そもそも純粋培養された納豆菌が使われるようになったのは、全国的に昭和27年か28年頃からと言われています。それまでは、ワラの表面に付着した納豆菌で発酵させていました。 
 ただ現在は、食品衛生法の基準の関係で、ワラ納豆が許されているのは、茨城県と鹿児島県だけ。ほかの都道府県では、納豆がビニールで包まれているので、ワラはただの入れ物に過ぎません。 
 かつては発酵に経木を使う納豆屋もありました。群馬県の下仁田納豆では、いまも赤松を薄くスライスした経木にこだわっています。ワラのほうが発酵が早い反面、乾燥も早い。対して、経木は高価ですが、適度な湿度もあるし、松ヤニによる抗菌成分もある。  

――なぜ水戸納豆は有名なのでしょうか。

 そのあたりに詳しいのが、水戸天狗納豆で有名な笹沼五郎商店の社長ですが、いちおう説明しますと、水戸納豆の特徴は小粒納豆です。昔、水戸では那珂川や桜川がひんぱんに氾濫するせいで、大豆が大きく育たなかったからと言われています。 
 実は、水戸納豆の歴史は、たかだか百年ほどに過ぎません。水戸にはこれといった名産がなかった。そこで明治時代に土産物を売り出そうと、小粒の大豆をワラで包んで発酵させた水戸納豆をつくりはじめたんです。それがいまや「水戸といえば納豆」というイメージが定着しましたからね。〝水戸の日〟である3月10日ころには「水戸納豆早食い世界大会」が開かれるようになりました。 

水戸天狗納豆。水戸の代名詞だが、歴史はそれほど古くない 

――そんな大会があるんですか。

「第1回水戸納豆早食い世界大会」(2002年)の優勝者は私です。 

――(笑)。水戸ではないとすると、納豆発祥の地はどこなのですか?

 二つの説があります。 
 一つが京都。平城京跡から出土した西暦700年頃の木簡に「くき」という食物が記されています。これがいまも京都や関西地方で食べられている麹菌からつくる塩辛納豆です。また聖徳太子が糸引納豆をつくったという伝説も残っていますが、糸引納豆がでてくる最初の文献は室町時代の『精進魚類物語』です。 
 二つ目の説が、秋田です。平安時代に奥州の反乱を治めるために京都から派遣された八幡太郎(源義家)が、馬の背に積んだ煮豆が納豆になっていたという伝説があります。横手市には「納豆発祥の地」の石碑が建立されていますが、検証のしようがありません。 

――当時から納豆はご飯と食べられていたのでしょうか。

 もともと納豆をご飯にかける習慣はなかったそうです。江戸では、「なっとう、なっとう」と納豆が入ったザルを両端に吊した天秤棒を担いだ納豆売りが町を歩きました。町人たちは、納豆をそのまま食べるのではなく、叩いて納豆汁にしました。江戸で食された納豆汁が東北や北陸に伝わり、郷土食として根付きました。 

――歴史や地域性、製法、食べ方などなど、「別に知らなくてもいいけど、知っていたら人生がちょっと楽しくなるかもしれない」が納豆学会のモットーですが、三十年、納豆を全方位的に研究してきたんですね。

 納豆学会の立ち上げは、Windows95の発売翌年の1996年です。ホームページを立ち上げて納豆を語る場として〝ナットワーク〟と名付けました。 
 いまならネットで検索すれば、全国各地の納豆を簡単に調べて取り寄せられます。しかし三十年前のインターネット黎明期には、その土地の納豆を食べるには、自分の足で現地へ行くしかなかった。ましてやパッケージのラベルなんて、その土地のスーパーや商店で買わないと手に入りません。 

 最近は、エネルギー事業のコンサルタントや塾経営の本業が忙しくて、ホームページの更新が追いついていませんが、地方出張が増えたので全国の納豆を食べて、ラベルを蒐集しています。地方出張では、まだ食べたことのない納豆を中心に10パックくらい買い込みます。ホテルに帰り、一人で「糸はこうきたか」とか「この豆の硬さはいいな」とかブツブツ呟きながら、食べています。 
 いま手元にあるラベルは、1万枚近く。新潟の実家には、納豆のラベルが詰まった段ボール箱が200箱くらい積んであります。 
 二十数年前に、狂牛病(BSE)が問題になりました。感染の原因は、狂牛病にかかった牛の骨や内臓を砕いた飼料の肉骨粉だとされています。しかし狂牛病が知られるまでは、肉骨粉は栄養の塊と考えられていました。 
 実際、肉骨粉の粉末付きの納豆もあったんです。狂牛病騒ぎで肉骨粉納豆は回収されて、そのメーカーも製造していなかったことにしたがっています。でも歴史は消せません。私は肉骨粉納豆のラベルも持っています。 
 1万枚のラベルの写真はすべて撮影済みです。現物を展示するのか、ネット上のアーカイブにするのか……いずれにしても、最終的な夢は納豆博物館の開設です。 

――博物館の開設ですか、たいへんですね。

 ネット上でデータベースをつくるにしても、数百万円はかかるでしょうね。 
 大手のメーカーに協力してもらうという手もありますが、そうするとメーカーの意向を無視できなくなってしまう恐れがあります。「肉骨粉納豆のラベルを出すな」と言われたら従わざるをえなくなり、好き勝手にできなくなるのは困ります。いま五十三歳ですが、遅くとも還暦までには戦前から現代までのラベルを網羅したデータベースをつくるつもりです。 

――戦前のラベルはどうやって手に入れたんですか?

 納豆のラベル蒐集家は明治、大正時代からいました。蒐集家の人が亡くなったという情報が入れば、引き取りに行くようにしています。ご本人や私にとっては貴重な宝物でも、遺された人にとっては、ただのゴミですからね。本人が死んだらただのゴミになる。そこに情熱を傾ける――納豆ラベルの尽きぬ魅力です。 

(聞き手・文=山川徹)

味気ないホテルの朝食も納豆さえあればシアワセ!? 
三井田 孝欧さん

みいだ・たかお 1972年新潟県生まれ。納豆学会主宰のほか、エネルギーコンサルティング、発電設備企画・設計、STEAM教育の塾、イベント企画などの事業を展開している。新潟県柏崎市議会議員も務めた。

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