【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第57回◎三山喬 山村工作隊の記憶(5)

【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ 

 奥多摩湖の北岸を走る青梅街道は、湖畔を三分の二ほど過ぎたところで渓流をまたぐ橋に差しかかる。その手前の信号から山道に分け入ると、曲がりくねった沿道にぽつりぽつりと小集落がある。旧小河内村の主だった集落は1957(昭和32)年に水没してしまったが、戦前から高台に点在したこれらの家々は、ダム完成後も村民の居住地であり続けた。

賑やかだった解村式

「今はどこも空き家ばかりになってしまいましたがね」 
 そう説明してくれたのは、山道に入ってほど近い位置にある「雲風呂」というバス停前を歩いていた保科貞次(86歳)だ。旧村内で最も高所にあった小集落で生まれ育ち、若いころは林業労働者として働いたが、やがて建築業に仕事を替え、生家よりだいぶ標高が低い現在の居所に移り住んだ。 
 街道から山道先の高所へと続く広大な山林は「留浦[とずら]」という地区(字)になっているが、その中でも下方にある雲風呂付近にはダムによる立ち退きで〝下から上がってきた転居民〟が何家族もいたという。「この家もこっちの家もそう。みな私が建てました。ひと頃はそういった仕事で大忙しでした」。今はもうひと気のほとんどない家々を、保科は寂しげに指し示した。 

旧小河内村で生まれ育った留浦地区の保科貞次氏

 後日、雲風呂バス停から500メートルほど上方の集落で、妻とふたりで暮らしている保科の家を訪問した。それでも、私が内心期待したダム建設直前の旧村の様子に関しては、〝山間の集落〟に離れていた保科の記憶は限られたものだった。 
「村(水没地区)の大人たちはもちろん大変だっただろうけど、山に住む我々とは直接関係のないことでしたからね」 
 石川達三の小説『日蔭の村』に描かれた戦前の抗議運動を先人から教わる機会はなく、1952年前後の山村工作隊の騒動もその記憶には残っていなかった。 
 中学時代には三年間、約4キロの山道を往復して村の中心部・河内地区に通学した。学校の裏手には村役場や農協もある賑やかな場所だった。 
 工作隊の小河内潜入は1951(昭和26)年秋に始まったとされていて(第一次~第三次の摘発は翌52年)、保科の中学生時代と半年ほど重なっている。だが、水没対象地区の多くの住民は当時すでに移転条件に合意済みだった。9月には中学校の校庭で全村住民による「解村式」が行われた。 
「地区ごとの獅子舞とか伝統芸能が発表され、それはもう賑やかな催しでした。その時点ではもう村を出て、昭島市や羽村市に移った人がかなりいましたが、解村式にはみんな集まってね。私はちょうど中学三年生。ダムに沈む中学の最後の卒業生になりました」 

 何回か似た質問をするうちに思い出してくれたのは、当時、共産党支持者として知られる村民の兄弟がいて、ある種の変わり者として「大人たちにはちょっと怖がられていた」という記憶だ。「でもそれは、あくまでそんな人が村にいたという話。よそから共産党の学生がたくさん押しかけてきたなんて、そんな騒ぎは知りません」。 
 本当に何ひとつ耳にしていないのか、それとも歳月を経て忘れ去ってしまったのか。いずれにせよ、保科を含む周縁部の住民にしてみれば、工作隊の潜入は村の歴史にほとんど影響しなかった〝些細な出来事〟に過ぎないのだ。 
 もし小河内にダムが造られず、昔ながらの暮らしが続いても、高度成長期以後の急激な過疎化は免れなかっただろう。保科はそう想像する。水没前の小河内は林業と炭焼き中心の村だった。そのいずれもが産業としてはほぼ消滅、もはや村内に生活を支える基盤はない。現在の留浦で、奥多摩町の中心(かつての氷川町)に出るバスは日に三便。自家用車を運転できる人もごくわずかで、住民の暮らしをつなぐのは、週二回やってくる食品販売車の巡回になっている。 
「うちの息子は青梅にいますけど、こっちに帰ることはないでしょう。帰っても仕事がなくどうしようもない。この家も私らで終わりです」 

「その地に骨を埋めろ」

 私がひと月半ほど前、散歩中だった保科老人と最初に言葉を交わしたのは、雲風呂バス停前に立派な楼門を持つ「普門禅寺」を訪ねた際のことだった。かつての村の中心地・河内地区から移設された寺で、楼門は町の文化財に指定されている。 
 ここには、奥多摩町で唯一と言っていい〝山村工作隊の痕跡〟が残されている。楼門をくぐって急傾斜の石段を登ると、本堂に向かって左手に、ふたつの石碑が並んでいるのである。 

 日本共産党員 岩﨑貞夫同志は長野県北佐久で生れた きびしい浅間おろしと詩情ゆたかな千曲川が彼を育てた 一九五二年十一月同志は山村工作隊員として小河内え入った 以来二年 心魂をかたむけての努力は人々と小河内の自然に深く爪あとを刻みつけた それは今日 静かに省(み)るわれわれの胸底深くいまも鮮烈に生きている 一九五四年十月三十日 彼は志なかばにして逝った 齢三十五 碑に刻まれた七文字は彼の絶筆である 
 四季さまざまに美しい小河内の山々静かな湖面は痛苦に満ちた若き革命家の姿と斗いの歴史とをそのふところに秘めている 鋼の意志と不屈の斗魂磊落な風貌のなかにふかい熱情を秘めた 岩﨑貞夫 忘れえぬ同志をしのびここにこの碑を建てる 
 これは共に斗ったわれわれの青春の碑でもある 
  一九六六年三月二十一日 
    岩﨑貞夫記念碑建設委員会 

 不鮮明になった文字に目を凝らすと、そんな碑文が読み取れる。隣には丸みを帯びた岩に大きな字で、故人の絶筆とされる七文字「不惜身命 惜身命」が彫られている。 
「不惜身命」とは、道のために命も惜しまずという仏教用語だが、七文字全体は成句として存在するものなのか。うしろの三文字は前半とは真逆のニュアンスにも読める。この言葉で故人はどんな心境を伝えたのか。 
 近隣の人によれば、留浦への移転時から数えて現在の普門禅寺住職はすでに三代目。石碑の建立は先々代か先代のころと思われるが、現在の住職はこの寺に暮らしてはいないという。 

旧小河内村河内地区から留浦地区に移設された普門禅寺の楼門

 岩崎貞夫の名は、小河内山村工作隊にかかわった何人かの当事者の証言にも登場する。早大生による地下活動の中心的存在だった由井誓(六全協を経て『アカハタ』編集員となり1961年に除名処分、1970年以後は新左翼系のフリーの文筆家・活動家となる)の「〝『五一年綱領』と極左冒険主義〟のひとこま」という文章もそのひとつだ(『由井誓 遺稿・回想』=由井誓追悼集刊行会編=所収)。 
 それによると、岩崎は1950年に党が分裂した際の東京の新宿地区委員長で、その後何らかの人間関係上のトラブルで三多摩地区に追われ、「そこでもやっかい者として小河内に飛ばされていた」という事情をもつ人物だったという。 
 そして1951年に始まる小河内の山村工作隊活動では、十日から半年ほどの期間限定で「思想教育的側面」を重視して送られる活動家と、「その地に骨を埋めろ」と命じられた「定着」と呼ばれるもうひとつのタイプがいて、岩崎は後者だった。「いずれにしても(派遣理由の)ほとんどは党派性の欠如などを理由とした懲罰的なものがからんでいた」という。 
 自身も小河内の現場にしばしば入り込み、一斉検挙にも遭っている由井は、共産党の武装闘争路線が、総選挙の惨敗などで尻すぼみになり、1953年には「山に来る党員もほとんどいなくなる」状況下、現地の工作隊員らは地下足袋に脚絆、ぐしょぬれ・泥まみれの着た切り雀のまま事実上の野宿生活を続けていて、岩崎の体は「ガタガタになっていた」と記している。 
「その経験からいっても(岩崎は小河内)工作隊の中心であり、歯をくいしばって決定にしたがっていた。病状が最悪となったときも三多摩内の党関係の診療所をタライ回しされ、最後は行路病者という扱いで板橋の小豆沢診療所へおしつけられ、そこで死んだ 」

 同じ時期、由井と同様に早大生のリーダー格だったひとり津金佑近(1969年から共産党衆院議員一期)は普門禅寺境内で岩崎を悼む碑の除幕式があったとき、これに参加したことを「岩崎貞夫のこと」という文章で回想した(『早稲田1950・資料と証言 1号』所収、なお津金はこの除幕式の時期を「65年9月」と記している)。 
 この中で津金は、岩崎の遺筆七文字について、故郷・長野県から病床に駆け付けた兄に本人が手渡したメモ書きだったと明かしている。 
 岩崎は兄に胸中をこう説明したという。 
「党と人民の解放のために捧げるなら、命は少しも惜しいとは思わぬ。しかし、そのためにこそ命を大切にして、もっと生き永らえてたたかいつづけたいと思うのだ」と。 
 自分が死んだらその骨を小河内に埋葬してほしい、という願いも、岩崎自身による遺言だったという。 

約二年間の山村工作活動を経て病死した岩崎貞夫を悼む石碑

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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