【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ
石碑建立の謎
旧小河内村(現・奥多摩町)の古刹・普門禅寺にひっそりと佇む山村工作隊員・岩崎貞夫の死を悼む石碑。隊の活動を振り返る当事者の回想には「村人は自分たちを警戒し、心を開いてくれなかった」と交流の限界に触れる言葉が多いのに、いったいなぜ普門禅寺や檀家の村人は、この石碑の設置に力を貸したのか。
聞けば、普門禅寺は水没地区にあった時代から専任の住職が常駐せず、青梅市にある臨済宗建長寺派常保寺の住職が代々普門禅寺住職も兼務してきたという。現在の住職・小澤秀孝(57歳)も旧小河内村に数十軒残っている檀家に仏事で呼ばれたときなどに青梅から通う格好で、小河内で暮らした経験はない。
「ですからなぜ、あの石碑が置かれることになったのか、私も事情はよく知りません。当時の住職は二代前、私の祖父ですが、とくに共産党の支持者だったとか、そういうわけではありません。〝どこにも祀るところがないのなら、普門禅寺の境内に碑を置いても構いません〟、その程度のことだったと思います。そういえば、先代住職の父の時代、六十代くらいの関係者が訪ねて来て、『お世話になっています』とおカネを置いていったそうですよ。きちんとした感じのいい人だったと聞いています」
前回の記事で取り上げた地元・留浦地区の古老・保科貞次が推察するところでは、かつての小河内には共産党シンパの村人もわずかにいて、そういった一部住民の仲介で石碑の建立は実現したのではないか、ということだったが、小澤住職は「私にはわかりません」と述べるだけだった。
自己批判
「小河内工作隊『岩崎同志の死についての自己批判』」
そんなタイトルのブログ記事を見つけたのは、長野県松代町出身の詩人で、フランス文学者でもあった大島博光の記念館のホームページ上だった。

博光との関係の詳しい説明はなく、このような文書が博光のもとに届いていた、というシンプルな記述のあと、1953(昭和28)年12月8日の日付がある「黒田」という差出人の手紙、そして同封されていた小河内山村工作隊名の「自己批判書」、このふたつの全文が紹介されている。
「黒田」からの手紙は、かねてから大島に相談する一同の自己批判について「不充分なところ、間違ったところ」の指摘を求める内容だ。
文書に記された論点は、自分たち工作隊の面々が、岩崎の深刻な病状を理解せず、病死に追いやった責任についてのものだった。
「岩崎同志が長くて苦しかった獄中から山へもどった時、同志はすでに山での活動はムリな体でした」
「たしかに、私たちは岩崎同志に口では『医者にみてもらえ』『入院しなければ』などといっていました。しかし、私たち工作隊にあった空気は、そんな言葉とはえんもない『弱いやつは山を下りろ、俺だけででもやってみせるから』といった、冷たい愛情のないものでした。(略)それが、岩崎同志が『俺は一日も早く革命の前線に立つために、山を下りて療養したいんだ』といい出すのをこばみ、同志を死なせてしまった一番の原因です。(略)臨終の床の中で、岩崎同志は山の同志はまだ来ないか、会いたい会いたいと何度も云ったそうです」
文書では、このような隊内での〝冷淡な関係〟を率直に認めたあと、そういった自己本位の姿勢は、隊による小河内村民との向き合い方においても存在した、という〝気づき〟に言及する。
「(村人の救済のため)何かしてやろう、こうしてやろうという気持ちが、村の人の要求や声をそのまますなおに聞いて利己心なく服務するというのでなく、やれストライキだ、斗争だと自分勝手な形をつくることばかりにヤッキになっていました。村の人からよせられる信頼をすぐに、自分たちのために利用しようということがなんどもなんどもありました。(略)私たち工作隊は「岩崎さんは村のために死んだんだ」と語ったある村人の一言で、岩崎同志の革命的な生涯をたたえ、私たちのさか立ちしたいままでの党活動のまちがいを示して下さった小河内村の人たちに、ありがとうと申し上げます。」
大島博光は戦前に早大文学部で西條八十に師事した詩人で、1946(昭和21)年、共産党に入党。50年代は東京都三鷹市に暮らしていた。博光の長男で記念館館長の医師・大島朋光の推察では、本人に山村工作隊の活動との直接の関係はなかったが、さまざまな党内の人間関係から「黒田」のような当事者と接点があったらしい。
博光が三十代の終わりから四十代にかけ、共産党の地域闘争に関心を寄せていたとわかったのは本人の死後。2018年、長野県上田市にある地元出身の出版人・小宮山量平(理論社創業者)のミュージアム関係者から「大島博光が書いた草稿がある」と連絡を受け、『武蔵野詩集』という詩集用の生原稿を見たことが、その時代の博光を掘り下げるきっかけになったという。
この詩集は1950年代前半、三多摩地区で活動したさまざまなサークル同人の作品集の形をとり、米軍基地反対運動や組合運動にまつわる詩が数多く収録されている。この作品集との出会いを機に、朋光はその時代の父・博光について資料を収集し、松川事件(※1)や内灘闘争(※2)にのめり込んだ様子を知るに至ったという。
※1 福島県で起きた旧国鉄列車の脱線事故。共産党による破壊工作と決めつけられ、20人が逮捕されたが全員が無罪、GHQによる謀略説もささやかれる。
※2 石川県・内灘町に計画された米軍砲弾試射場建設への反対運動。
小河内山村工作隊による自己批判文書の存在も、このような博光の足跡をたどるなかで気づいたものだったが、同時にこの問題に関しては、『武蔵野詩集』に見つけた「こばやし・つねお(小林恒雄)」という詩人の作品にも衝撃を受け、朋光は記念館のブログに長いその作品の全文を載せている。
「この詩人は、博光とさほど深い間柄にあったわけではないですが、若いころ、彼の詩集の出版記念会に博光も出席するような付き合いがあったようです」
そして朋光が記念館ブログで紹介した「小河内谷のじじいが歌」という彼の作品こそ、村人の側から見た〝山村工作隊への心情〟をうたったものだった。
「こばやし」が自身も工作隊に加わった当事者かどうかは定かでない。
「でもこの人は新聞記者だった経歴もあり、まるっきりのフィクションを詩にしたとは思えません。少なくともモデルになる人物は実際に村にいて、直接聞き取った話をベースにしてつくった作品のように感じられます」
詩の末尾にある日付は1952年4月。前年の秋に工作隊が小河内にやって来て、警官隊による第一次の検挙があった直後のこと。『読売新聞』に渡邉恒雄(当時は『読売ウイークリー』記者)が小河内のアジト潜入記を書いたのは、まさにこの4月だった。
そしてまた/「六百万都民の水のために」と/朝の都下版のトップへ出た/白茶けた工事場の写真まで入れて/まことしやかに新聞へ出た(略)
ああ わしらはどこまでしぼりぬかれるのであろう/土地はとうにわしのものではなく/ながい貧乏くらしに借金はかさんで/このあばらやさえいつのまにやら地主の名儀/住みついているとはいうものの/この 土地もなく家もないまる裸のわしらに/補償金ビタ一文さえ どこからふっておちるというのだろうか/どの土くれを掘りおこしてみたとて/涙ほどさえも湧いて出はしない
戦前から村を〝生殺し〟にしてきたダム建設計画が突如、再始動し始めた背景に、主人公の「じじい」は朝鮮戦争の勃発と関連した在日米軍の思惑を感じ取り、長年の計画の棚ざらしによって窮乏化した村人の怨嗟を代弁する。
そんな折、突如として村に現れた山村工作隊の若者たち。「じじい」は彼らが指摘する計画の問題点に一つひとつ共感する一方、同時に正体のよくわからない彼らに不信感を抱いたことも明かしている。
若者たちはどこからともなく/いつかこの谷へあつまってきた/おのおの背おったリュックサックの中へ/食糧とともに 色刷りのビラをも/幾色か ぎっしりつめこんでやってきた/紙芝居と 幻燈写真と/日本と世界の話題をつめて/それに 笑顔と勇気をも/ともにつめこんでやってきた(略)その若者たちのはなしは みょうに/わしらのしなびた胸の勇気を/しばしば かきたてることがあった
しかしなぜかわしは その若者たちを/腹底から信じることができなくていた(略)住みなれた村はかわいいし/それを食いものにしようとするやつらには腹も立ったが/なぜかわしは/ああ なぜか若者たちを 信じることができないでいた
その思いに変化が現れたのは、若者らが手錠をかけられ連行されてゆく姿を見てのことだ。次回はこの長い詩の続きから話を始めたい。


(つづく)

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。
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