【ジャーナル】老いをどう生きるか――日本映画から学ぶ◎澤宮優 第3話/自分のスタイルを貫く人生――『PERFECT DAYS』と『日日是好日』――

加速度的に進む超高齢化社会にあって、誰しも、いやおうなく「老い」と向き合うようになった。老いの現実を早くから伝えてきたものに映画がある。名作といわれる日本映画を題材に、「老い」はどう描かれてきたのか? そこから何を汲み取るのか? ノンフィクション作家の澤宮優さんが探る。  

 人は老いの入り口に立ったとき、そこにどう入ったらよいのか立ちあぐねている。ただ、一つそうなのかなと思うことがある。それはシンプルなスタイルで生きることが、もっとも強く、充実した生き方ではないかということだ。 
 そう思ったのは『PERFECT DAYS』(監督ヴィム・ヴェンダース 2023年)と、『日日是好日』(監督大森立嗣 2018年)を観たからである。 
 このとき思い出したのが、放浪の詩人高木護(2019年死去)である。高木は九州の野山を放浪し、マムシと穴蔵で添い寝し、晩秋の野山で野宿したとき、獣に葉をかけてもらって寝たという経験がある。晩年の彼に「悟ったことは何ですか」と聞いた。彼は即座に「諦めることです」と語った。この二作品も高木の悟りに通じている。 

『PERFECT DAYS』は、都内のトイレの清掃員をする平山という初老の男が主人公である。彼の生活は判で押したようにシンプルだ。古いアパートに一人暮らし、部屋は整理整頓が行き届き、テレビ、パソコンの類いはない。壁際にたくさんの文庫本を並べた棚がある。 
 夜も明けないうちに起き、茶碗で栽培する草木に水をやる。アパート前の自動販売機で缶コーヒーを買い、作業用の車に乗り、カーステレオに古い洋楽のカセットテープを入れ、聴きながら、都内の公園にあるいくつもの公衆トイレに向かう。 
 平山の仕事ぶりは丁寧で完璧だ。便器、外壁、周囲のゴミ拾いなど、ぬかりなく進めてゆく。若い同僚は「やりすぎですよ。どうせ汚れるんだから」と言うが、無口な彼は淡々と仕事を続けるだけだ。 
「なんでこんな仕事続けているんですか」 
と問われても(それこそ見る側が一番知りたい点だが)、彼は微笑を浮かべるだけだ。ランチは神社の境内のベンチに座って、コンビニで買ったサンドイッチを食べる。その後木々をモノクロのフィルムカメラで撮影する。なぜモノクロフィルムを使うのか理由は示されない。 
 夕方に仕事を終え、銭湯で一番風呂に入る。それから浅草駅地下にある大衆居酒屋でいつものチューハイを飲む。アパートに戻ったら文庫本を読んで眠る。翌日も同じ行動の繰り返しである。 

©️2023 MASTER MIND Ltd.

 彼は毎夜、モノクロの混沌とした光景の夢を見る。道路、光る木の葉、道を通る子どもなどである。それは何を意味するのだろう。内面に複雑な葛藤を抱えていることがわかる。 
 たまの休日には写真を現像する店に行き、焼き上がった写真を受け取り、撮影したフィルムを出す。家に戻り、写真を保管するもの、捨てるものと区別する。コインランドリーに行き作業着の洗濯が終われば、昔ながらの人文系の古書店に行き、一冊100円の棚で文庫本を一冊買う。その後なじみの小料理店に行く。そこにいる彼と同年代の女将に、彼は好意を持っているようである。彼女も彼の飲み物の好みを知っているから、それなりに親しいのだろう。休日の過ごし方も毎回同じなのである。 

 ここまでくれば、いったい平山はどんな人物かという疑問が湧くのは当然のことである。カセットテープ、フィルムカメラ、モノクロ、銭湯、大衆居酒屋、古書店と、彼の趣味は徹底してレトロなのである。買った文庫本も今ではあまり読まれない作家の幸田文で、しかも晩年の作品『木』である。彼はあえて現代とは対極にあるものを好んでいるとしか言いようがない。 
 この映画は見る側に推測を求めるのが特徴で、答えを与えない。自分らしい生き方とは何かという問いを発し、その問いには万人に一律な答えがないように、平山をヒントにさせて、それぞれが回答を導き出すように訴えているかのようだ。 

 平山の一面が垣間見えるのが、突然彼の許に姪が家出して来たときである。彼は姪を自分のアパートに泊めるが、彼女は平山の生き方は母親とは正反対だと語る。母娘の対立にもそのような価値観の対立があり、自分の流儀で生きる伯父に魅力を感じたのだろう。 
 高級車に乗って娘を迎えに来た妹は、兄に、本当にこんな生き方でいいのか、父も施設にいるので戻ったらどうかと言うが、平山は拒否した。このとき彼の今の生き方は、父親との対立もあってできたことがわかる。 

 現代人は、誰もが平山の生き方に憧れる部分をどこかしらに持っている筈である。その生き方は清貧で清々しい。しかし共感はしても、現実には簡単に割り切れるものではないことも確かである。 
 平山のように人生の余計なものをそぎ落とすことは、諦めることに通じている。だから残った骨組みは本物で揺るぎない。それでも悩み、迷うのが人間である。彼の夢はどう変化してゆくのだろうか。夢がカオスから脱皮したときが、彼が自分のスタイルを完全に手に入れた瞬間になるだろう。 
 老いを生きるとは、そのような自分流のスタイルを時間をかけて熟成させ、それが体得できたときの生き方こそ至上なのである。 

 ここで思い出すのが、大学生の典子が師匠の武田という老女から茶道を学ぶ『日日是好日』である。日日是好日は毎日が好い日という意味でなく、どんな日であってもその日をあるがままに受け入れ、よい日として味わって生きるという禅の言葉である。武田はその言葉通りに茶道の世界で長く生きた人である。 
 武田は古い木造の日本家屋に一人で住んでいる。暮らしぶりは質素だが、庭は手入れが行き届き、広々とした広間で茶道を教えている。 

©️2018「日日是好日」製作委員会

 武田の語り口は静かだが、不器用な典子への所作に対する注意はうるさい。畳の縁は踏むな、返事は二度するな、と。その作法にどういう意味があるのかと一緒に入門した彼女の従姉妹が問うと、武田は意味がなくてもそうするものだ、お茶は形が先で、形を作った後に入れ物に心が入る、頭で考えてはいけないと素っ気ない。 
 たぶん武田にも明確に説明できる教えはないのだ。しかし物事には意味や合理性を超越したところに存在するものがあるのも事実である。それは抽象的にしか伝えられず、その答えはおのおのが考え抜いて出すべきものだろう。道の精神性とはそのようなものである。 

 武田は無名の人で、質素な暮らしぶりをしている。地味だが品のある和服姿で、振る舞いに気品がある。町の片隅にも本物はいるということである。 
 典子は次第に茶道の魅力に取り付かれてゆく。ある日、彼女の手が自然に水差しに行った。何かに操られたみたいに手が動いたのだ。それは不思議に気持ちがいいものだった。そのとき武田は手が知っているからだ、自分の手を信じることだと教える。それが形式主義の神髄である。 
 典子から見れば、武田の所作はどこかに丸みがある、山の湧き水のような体に染みこんでいくような心地よさを感じるという。それが成熟の意味なのだろう。 
 柄杓から茶碗にお湯を注ぐときの微妙な音の違い、お湯と水の音の違い、それは武田が道を修行して体得したものである。武田は具体的に教えられる所作は細かく教えるが、教えられないものは教えない。当たり前のことだ。それは彼女の姿から学び取ってゆくしかない。道というものの極意にはそんな言葉でつかみ取れない奥の深さがあることを学ばされる。 
 それを感覚として分かっているのが、茶道であれ、生活の知恵であれ、人生を長く生き抜いた人たちではないだろうか。 
 ある夕暮れに縁側で一人お茶を味わい、庭を眺める武田の姿が映し出される。それがしみじみとした落ち着き払った佇まいをしている。自然体とはこういう姿なのだろう。それは一芸に生きたものが持ち得る風格なのである。それが老練の境地ということだ。 

(つづく)

澤宮 優

さわみや・ゆう 1964年熊本県八代市生まれ。青山学院大学文学部史学科、早稲田大学第二文学部日本文学専修卒業。戦前の巨人の名捕手吉原正喜の生涯を描いた『巨人軍最強の捕手』(晶文社、2003年)で第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。主な著書に『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫)、『集団就職』(弦書房)、『戦国廃城紀行』(河出文庫)、『世紀の落球』(中央公論新社・第3回野球文化學會賞)、『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(集英社文庫)、『暴れ川と生きる』(忘羊社)、『あなたの隣にある沖縄』(集英社文庫)など多数。映画関係の著作に、木下惠介の名作「二十四の瞳」の子役たちのその後を追い、木下惠介論を付記した『「二十四の瞳」からのメッセージ』(論創社)がある。現在「西日本新聞」読書欄で映画本の書評を執筆中。 

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