【ジャーナル】老いをどう生きるか――日本映画から学ぶ◎澤宮優 第2話/『デンデラ』――老いの意地、老いの気骨、因習への反抗

加速度的に進む超高齢化社会にあって、誰しも、いやおうなく「老い」と向き合うようになった。老いの現実を早くから伝えてきたものに映画がある。名作といわれる日本映画を題材に、「老い」はどう描かれてきたのか? そこから何を汲み取るのか? ノンフィクション作家の澤宮優さんが探る。  

 前回『楢山節考』は、理不尽なムラの掟にただ従い、従容として死につく犠牲的精神を、哀しみと、ある種の美しさとして描いていた。しかし現代の視点からすると、物足りなく感じるのも事実である。可哀想だが、運命を享受するだけの生き方でいいのかという疑問を拭えない。 
 そこで今回は、現代的視点で「姥捨て信仰」を捉えた作品を紹介する。天願大介[てんがん・だいすけ]監督の『デンデラ』(2011年、東映)である。天願大介監督は『楢山節考』を監督した今村昌平の長男で、親子ともに〝姥捨て〟を手がけることになったわけである。「デンデラ」とは姥捨てで死ねなかった人が生きている場所を意味する。 

 木下惠介や今村昌平作品は、母親が息子に背負われて山に捨てられる場面で終わる。しかし『デンデラ』はそうではなく、両作のラストから物語が始まる。 
 原作は佐藤友哉の小説『デンデラ』(新潮文庫)である。天願は原作を読み、こう語っている。 
「現代の新しい世代の作家は、姥捨ての物語をどこか批判的に見ているのだな、と。僕にしても、自己犠牲で死んでいく話よりも、死なないで生き延びていく方が面白いと思うし」(『シナリオ』2011年7月号) 

デンデラ(新潮文庫) 佐藤友哉/著

 天願は、この作品は両作の続編ではなく、その裏側を描いた作品であると同誌で語っている。 
 映画の冒頭、七十歳のカユは白装束を着て山に捨てられるが、すぐに気を失う。目が覚めたら小屋にいた。そこがデンデラの村だった。そこには自分より先に姥捨て山に連れて行かれた見知った女性ばかりがいた。しかし極楽への信仰を捨てきれないカユは反抗する。 
 彼女たちはあっけらかんと言う。 
「極楽に行きたいのは本当だけんど、やっぱり死ぬのはおっかねえと思った」 
 デンデラの村を作ったのは、百歳になるメイである。彼女は老いとは無縁だとばかりに皆を従わせるオーラを持っていた。 
 村にいる女性たちを非難するカユにこう諭す。 
「ちょうど三十年前、俺はお前と同じようにお山に捨てられたのだ。村のため家族のため働きづめに働いてきだこの俺が、役立たずの屑のようにな……年を取ることは罪だか。罪ではね。年寄りは屑だか? 屑ではね、人だ!」 
 現代社会でもリストラや使い捨てといった問題が起きるが、こうした状況にも通じる言葉である。今も昔も、組織や会社のためを思って一生懸命働いても、使えないと判断されれば組織の都合で捨てられる。 

 メイの計画は、姥捨ての掟を作った村の男たちへの復讐を果たすことである。自分たちを捨てた村の男たちを皆殺しにし、村を叩き潰すことである。彼らに、自分たちがこうして生きていることを見せつけてやると息巻く。 
 デンデラの村にいる老女たちは勇ましく活気がある。機敏な動作で竹槍訓練を行っている。彼女たちは雪の中でうさぎを獲り、鳥を獲り、木の実を食べて自給自足の生活を送る。 
 女たちは、かつて村にいたときのように男に従うだけの存在ではなくなり、自分の頭でものを考え、意見を言う人間に変わる。そこにこの作品のキモがある。それは近代的な自我の目覚めであった。 

 彼女たちの思いの根幹にあるのは男たちへの憎しみである。姥捨ての掟を作った、村を司り権力を握る旦那衆や寺の坊主たち。彼らは好き放題に美味いものを喰って八十歳まで生きる。そのため村の住民は飢餓に苦しみ、飢餓を回避するために姥捨てという掟が作られた。彼らは住民が飢えて死んでも知らん顔をしている。それはどこぞの国の独裁者の姿にも見える。 

 これまでの姥捨てを扱った作品には、なぜ老人が山に捨てられるのか、その理由を明確に描いたものはない。ただ「貧しさのために」で片付けられている。だが『デンデラ』では、権力者の腐敗が原因だと述べられ、村の権力者対無力な住民という図式が描かれる。ここらへんが『楢山節考』の裏側という意味なのだろう。 
 だが復讐は根本的な解決にならないことも明らかである。復讐を成し遂げた先には何があるのか。女たちを従えるメイは感情が先立ち、深く考えをめぐらすことができない。そこを見抜いているのが、マサリである。彼女の家族は掟を破ったため、皆殺しにされた。彼女も片眼を潰され、夫と離縁され、男たちの慰み者として生きてきた。最も村の不条理を体験した彼女だが、聡明だった。メイの考えの盲点を突き、怨みで村を襲っても何も生まれないと指摘する。 

 掟の根幹は、貧しさにある。デンデラが豊かになれば、それが村への最大の復讐になるとマサリは言うが、意見は受け入れられなかった。彼女たちは「いくじなし」と呼ばれても、集落から排除されることはなかった。それは因習に盲目的に従うしかなく、異端児を許さない村への痛烈なあてつけになっている。 
 しかし疑問が浮ぶのも事実である。なぜメイは男へ敵愾心を向けるのかという点である。掟を作り、住民から搾取しているのは、男の中でも権力を持った一部の者たちである。その他大勢の男は女同様、七十歳になれば山に捨てられる。男も掟の犠牲者なのである。それがなぜ男全体が憎しみの対象となるのか、なぜ女だけの集落を作ったのか、その論理に無理がある。復讐すべき思いを持つのは男も同じである。 
 だが熊の来襲や雪崩によって多くの者たちが死に、デンデラは壊滅的な状況に陥り、復讐の決行は困難になる。生き残った女たちはどのような選択をするのだろうか。熊の存在は象徴的で、村の掟同様、理不尽である。雪崩もそうだが、そのような理不尽なものに翻弄されて生きるのが、人というものなのだろう。 

 天願は熊の存在を「運命」だと語った。昨今、気候変動もあってか、熊は人間の住む世界に顔を出すようになった。熊による理不尽な被害は至るところで見られ、深刻な状況になっている。それだけに私たちも自然界の運命からは逃れられないのだという思いを強くする。 

 かつての老人は、大家族制度の中で、最後、家族に看取られ死を迎えた。老いと死が家族の日常とともにあった。老いて体が弱り、醜さを晒して、人は死んでゆく。それがこの世の定めであることを私たちは諦めとともに学んだ。 
 だが今はそのような時代ではない。多くの人が病院や介護施設で死んでゆく。しかしそれは、施設の便利さという口当たりのいい理屈で「見棄てた」と言えるのではないだろうか。ここでは老いを扱う側の正直な現実がさりげなく出ている点も興味深い。 

「お前も爺さまや婆さま捨でだとぎ、胸ん中さ楽になったんでねが?」 
 今私たちの身近に老いと死は存在しない。だから老いと死を観念だけで捉えることの危うさを持ちながら、老人を見つめたとき、そこには老人と若い世代の認識の乖離が生まれる。そのとき「年を取ることは罪だか。罪ではね。年寄りは屑だか? 屑ではね。人だ!」というメイの言葉が重さをもって迫ってくる。そこに「姥捨て伝説」が今も語り継がれる意義がある。 

 メイの言葉が印象的である。 
「生ぎるとは何とつらいこどか。寒い、暑い、眠い、ひもじい、病にかかる、殴られる、犯される、嫉妬する、裏切られる、捨でられる、嘘をつぐ、そして最後は一人で死ぬ……生ぎるとは何だ。何故生ぎねばならぬのだ」 
 デンデラにいる皆にも、それぞれ不条理を生き抜いた固有の人生があることを私たちは知る。それらの人生と対峙したとき、私たちの胸には彼女たちへの尊厳が生まれてくるはずである。そこから老いに対する本当の向き合い方が生まれる。 
 作品の冒頭、カユが山奥で小便をする姿が印象的である。生理現象に過ぎないが、人間は死を前にしても最後まで自分の生に執着するという現実を知らされる。 

出演は浅丘ルリ子、草笛光子、倍賞美津子、山本陽子、山口果林など 

(つづく)

澤宮 優

さわみや・ゆう 1964年熊本県八代市生まれ。青山学院大学文学部史学科、早稲田大学第二文学部日本文学専修卒業。戦前の巨人の名捕手吉原正喜の生涯を描いた『巨人軍最強の捕手』(晶文社、2003年)で第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。主な著書に『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫)、『集団就職』(弦書房)、『戦国廃城紀行』(河出文庫)、『世紀の落球』(中央公論新社・第3回野球文化學會賞)、『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(集英社文庫)、『暴れ川と生きる』(忘羊社)、『あなたの隣にある沖縄』(集英社文庫)など多数。映画関係の著作に、木下惠介の名作「二十四の瞳」の子役たちのその後を追い、木下惠介論を付記した『「二十四の瞳」からのメッセージ』(論創社)がある。現在「西日本新聞」読書欄で映画本の書評を執筆中。 

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