ヒトの偉いところは物事を探究するところ。好奇心から、真理を追求するための探究心へと突き進む。都合のいいことに対象テーマは無数にある。研究の成果は、人類への貢献になることもあるし、ご本人以外にはまったく無意味という場合もある。前者だからよく、後者だからダメとは思わない。大事なのは探究する心。第3回は東京・北区赤羽で一時代を築いた数々の風俗店の、客寄せチラシを研究した荻原通弘さんに聞きました。
北区赤羽ピンクチラシ物語
――荻原さんはいつ頃から赤羽駅前でピンクチラシの蒐集をはじめたのですか?
意識的に集めはじめたのは1978年です。はじめてコレクションしたチラシは、A5判くらいのサイズの「キャバレーロンドン」か、「キャバレーウラシマ」のチラシだったと記憶しています。
当時はカラオケが大ブームになり、インベーダーゲームが大流行していた活気があった時代です。私が暮らす赤羽では、駅の南側にキャバレーやピンクサロン、ノーパン喫茶が続々と開店し、そうした店は客を誘引しようと大量のピンクチラシを配っていました。
ただ私は、お酒を飲みませんし、キャバレーにも興味がありません。駅前で渡されるピンクチラシは、私にとっては無用の、ただのゴミでした。実際、迷惑だなあと捨てていましたから。
でも、あるとき、渡されたチラシをしげしげと眺め、思ったわけです。こうしたチラシをバカにするのでなく、本格的にコレクションすれば、赤羽という街の歴史の一部が垣間見える史料になるかもしれない、と。1枚のピンクチラシでは、街の歴史は見えません。10枚でも20枚でも同じでしょう。しかし、長期間にわたって100枚、200枚と集めたらどうなるか。ピンクチラシからなにがしかの意味を見いだせるのではないか――そう考えたのです。
とはいえ、 そんなものを集め出したら、家族が私の異変を疑うかも知れませんから、むやみにそのへんに置いておくわけにはいきません。集め出したチラシは、裏に渡された日の日付と場所を記し、紙袋に入れて本棚の奥にしまっておきました。
――〈男性ばんざい、12月の夜に バクハツ〉〈お色気狂宴絶頂大会〉〈ピチピチ娘のアタックサービス〉〈あなたも気持E~事しましょう〉……。確かにご家族にとってはマジメな夫であり、父であった人が、突然異界に目覚めてしまったと驚愕しますね。
(笑)。当時のチラシの特徴は住所や地図、電話番号のほか〈完全明朗会計 7時までご来店のお客様1650円〉〈飲み食い放題8時まで4000円ポッキリ〉など店の情報がしっかり載っていることです。激しい価格競争が繰り広げられていることもわかります。午後6時から午後7時、午後7時から午後8時、午後9時以降で細かく値段が区切られた店が多く、なかには飲み放題食べ放題の店もあります。
この値段で店はやっていけるのか? 不思議に思いましたが、お酒が飲めない私には実態がどうなのかはわかりません。ただ、この安価な値段設定が赤羽らしさと言えます。給料日に奮発して、4000円、5000円を出してキャバレーで遊ぶ。チラシを見る限りでは、座って3万円とか5万円の店はないようです。
また赤羽には朝からやっている飲み屋が多い。近くに大きな印刷会社などがあり、三交代制で働いている人がいるからです。そうした地域の特徴も安価な値段につながっていたのでしょう。

――この「キャバレーロンドン」のチラシに貼られたカードに〈ちあきなおみ〉とありますが、本物ではないですよね。
もちろんご本人じゃありません。ホステスさんの源氏名です。ご本人には迷惑でしょうが、こんな適当で、ウソくさいものが通用していた。のどかと言えばのどかな時代です。
正確な時期は覚えていませんが、ピンクチラシ配布への取り締まりが厳しくなり、ピンクチラシを配って客引きをする人たちがいなくなってしまいました。客引きが手渡しで配っていたA5判サイズのチラシの次に登場したのが、電話ボックスや、駅の券売機近く、公衆トイレなどに置かれた名刺大のピンクチラシです。
券売機や公衆トイレのチラシは置いてあるだけなのですぐに持ち帰れましたが、採集に苦労したのが公衆電話ボックスです。かつて公衆電話ボックスには、外から内部が見えなくなるくらい大量のチラシが貼られていました。電話をかけるふりをして、勝手にはがして持ち帰ればいいのだから楽だろうと思われるかもしれませんが、そう簡単ではない。なぜなら両面テープでしっかりと貼られているからです。
原型を保ち、採集・保存することが目的ですから、破損しないように時間をかけて慎重にはがさなければならない。しかも次に電話を使う人が並んだら、即撤収です。こちらは電話にはそもそも用事はない。しかし並ぶ人には用事があるわけですから、迷惑をかけてはいけない。携帯電話以前の時代ですからね。ちなみに公衆電話ボックスにチラシが貼られるようになると、新大久保、赤坂、池袋、新宿、秋葉原などのチラシも集めるようになりました。赤羽の隣の埼玉県の川口でも採集活動を行いました。
ボックス内でチラシをはがす作業に取り組みながら、当初は「このチラシをきれいにはがして、お店に出向くなんてご苦労なことだ」と思い込んでいたのですが、店に行く人たちはチラシに書かれた番号に電話して予約していたんですね。「電話ボックスは電話をかけるためのもの」と気づきました。そんな当たり前のことも忘れていました。
――携帯電話が当たりの今からは想像できない光景ですね。
公衆電話ボックス内での採集という苦労も1987年頃まででした。電話ボックス内に貼られていたチラシは規制され姿を消しました。代わりに登場したのが10軒くらいの店のチラシをまとめた冊子のような形ものです。街の案内所や駅近くのちょっとしたスペースに置かれるようになりました。
チラシの変化はそれだけではありません。店の場所は明記されず、電話番号と値段だけが大きく記されるようになったのです。出張サービスの風俗店の登場です。そうしたチラシには〈若妻〉〈未亡人〉〈熟女〉〈ひよこ〉など女性の属性を強調するコピーが増え、〈女子大生グループ〉〈Cカップコレクション〉〈人妻専科〉〈金髪娘〉などウリを店名にした店も出てきました。
そうした流れに拍車をかけたのが、1998年5月の風営法の大幅改正です。無店舗型風俗特殊営業が解禁され、派遣型ファッションヘルスの営業が可能になり、店舗に客を呼ぶより、電話一本で派遣する形の業態が増えました。その影響で、以前のような飲み食いについて書かれたチラシほとんど見なくなりましたね。
1991年から2000年までの10年間では18枚のチラシを赤羽で採集しました。地域性という点では、ほかの繁華街では派遣型風俗の広告が増えるなか、赤羽では店舗型風俗のチラシがまだ多いという特徴がありました。

――この頃から性風俗店のチラシばかりになるんですね。デリバリーヘルス〈LOVEの宅急便〉〈リストラOLの逆襲〉〈コギャル〉〈アムラー〉など、時代性が垣間見えます。
大人気バラエティ「料理の鉄人」をもじった〈巨乳の鉄人〉という店のチラシもありますよ。いま振り返ると、チラシのコピーには、時代や社会を反映した言葉が使われています。一方で、〈看護婦〉や〈スチュワーデス〉などいまではほとんど使われなくなった言葉もあります。1980年代に出回っていた〈金髪〉〈白人〉のコピーが消えたのも時代の変化のひとつでしょう。
1990年代後半から2000年代前半にかけては、広告の主戦場が紙のチラシから携帯サイトやインターネットへと移行する時代でもありました。紙からインターネットへの変化は何をもたらしたのか。端的に言えば、広範なエリアをカバーする情報発信に変わりました。その結果、赤羽らしい地域性が強いチラシが姿を消し、ピンクチラシを集める面白みも薄れてしまったのです。
2000年代はじめに秋葉原でメイド喫茶が流行し、意を決してメイド喫茶のチラシをもらおうと秋葉原に足を運んだのは2006年のことです。メイド服を着た若い女性が配っていたチラシは、私が採集をはじめた頃のチラシと同じくらいサイズでした。たくさん集めようと思ったのですが、若いメイドさんに「えっ?」と怪訝な顔をされてしまって……。私は当時66歳。スケベなヘンなオジサンと見られたであろうことに落胆し、積極的な採集にほぼ終止符を打ちました。
それに、2006年にも風営法が改正され、チラシに盛り込める表現が規制されただけではなく、違法なチラシには100万円以下の罰金が科せられるようになり、配布が難しくなったという背景もあります。2007年に新宿で採集したピンクチラシには、女性の写真に加え、電話番号と〈女性募集 パート可〉〈女子大生〉〈20~30才〉という情報しか記載されていませんでした。
――1980年代のチラシと見比べると、ユーモアも味気もないですね。
そうなんです。そして2011年頃、ピンクチラシのコレクションを98%止めました。最後のピンクチラシは、新宿の3点と新大久保の1点だけです。
――残りの2%は?
未練です(笑)。ただ現実として手にできるチラシがなくなっています。表現の規制以上に大きかったのが、スマホの普及ですね。スマホで検索できれば、ピンクチラシなんて必要ありません。印刷物であるピンクチラシも、スマホの登場によって役割を終えたということなのでしょう。
こうして30年以上にわたった私のピンクチラシ採集が幕を閉じました。採集を終えたあと、ピンクチラシを年代順に整理して、古い住宅地図や、聞き取りした商店街の人の話をもとにして、赤羽の開発や繁華街の変化を調べました。
――その集大成となったのが著書の『赤羽駅前ピンクチラシ』(彩流社)ですね。
まさか本になるなんて思ってもいませんでした。あるジャーナリストにピンクチラシの採集と整理の話をしたら、「それは本にしないと」と言ってくれ、トントン拍子で本になりました。
そもそも子どもの頃から中国の切手や、牛乳のフタ、マッチのラベルなどの紙物に興味があり、いろいろとコレクションしていました。いまもマッチのラベルは5000枚以上保管しています。バナナやパイナップルに貼られたラベル、古地図、木札、包装紙などのコレクションもあります。江戸時代の医学書や薬学の資料もたくさん集めました。医学・薬学関係のコレクションは飛鳥山博物館(東京・北区)で展示をして、すべて寄贈しました。

――それらのコレクションも、すべてご自宅で保管していたんですか?
家内が困ってましたね。家内が一番驚いたのが、幅が1.2メートルくらいある古い「仁丹」の看板です。「こんにちは! お届けに上がりました!」と古道具屋さんが届けてくれたのですが、玄関に出た家内が「お父さん、これ、いったいどうするの?」とあきれかえっていました。その看板も飛鳥山博物館に寄贈しました。
――荻原さんにとって、赤羽はどんな街なのでしょうか。
私は赤羽で生まれ育ちましたからね。5歳の頃には空襲も経験しています。1945年4月、アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトが死んだというニュースが報じられて、「ざまあみろ」と言ったのを覚えています。そうしたら、その晩、北区で約200人も亡くなる大空襲があって……。夜中に鍋と釜を持って落ちてくる焼夷弾から逃げ回りました。敗戦後の赤羽駅前は焼け野原でした。子どもの頃は、駅前にできたヤミ市をうろついたり、進駐軍の基地に戦車を見に行ったりしていました。
赤羽は都心から近いと同時に、上越線や東北本線が走る、交通の要衝です。敗戦後は物資の集積地として早くから大勢の人が集まり、にぎわった街です。都心のような気取りもないから、地方から来る人たちにとっても暮らしやすかったのでしょう。多くの人が商売をはじめました。そうしたにぎわいが一時期の風俗店の一大集積地につながったと思います。
――まさに赤羽の生き字引ですね。
字引かどうかはわかりません。でも、いまも生きていることは確かです(笑)。

(聞き手・文=山川徹)

おぎはら・みちひろ 1940年、東京・赤羽生まれ。東京理科大学理学部応用化学科卒業後、主として化粧品関係の分野の原料開発から製品化、販売、特許申請などさまざまな分野の仕事に約50年間携わる。その傍らで、ラベル、包装紙、薬袋、種袋、江戸から明治期の古文書などの紙物を中心に資料として蒐集する。木村英昭氏との編著に『赤羽駅前ピンクチラシ: 性風俗の地域史』(彩流社)がある。
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