鳩山一郎(1883~1959) 写真提供=共同通信イメージズ
1946(昭和21)年4月10日、戦後最初の総選挙で鳩山一郎の日本自由党(前年10月に結党)は141議席を獲得し、過半数(235議席)には届かなかったものの、第一党の座を手に入れた。新憲法の公布を年内に控えた旧憲法による最後の総選挙。選挙結果がダイレクトに政権に結びつく現行の仕組みとは異なって、旧憲法下では天皇が重臣などの助言を受け首相を任命した。このときの選挙では、前任の幣原喜重郎内閣が政権維持に固執したことなどから、鳩山政権を認める合意の形成は5月にまでずれ込んだ。
公職追放
天皇による「大命降下」の目途がようやくつき、鳩山が組閣作業に着手したのは5月4日。そんな段階まできたところで、進駐軍による公職追放の知らせが鳩山に届いたのだ。
国会議員を含む第一次の大がかりな追放者リストが公表されたのは、選挙前1月4日のこと。前回総選挙(戦時下1942年の「翼賛選挙」)で大政翼賛会の推薦候補として当選した議員(466人中381人)は軍国主義の協力者と見なされて、追放対象者とされた。このため4月の選挙では各政党とも大量の新人を擁立せざるを得ず、その結果新人の当選者は全体の8割にも及んだ。東条英機内閣に抗って翼賛選挙を「非推薦」で勝ち抜いた鳩山らは、数少ない現職組として議席を維持したのだった。
しかしそんな〝反東条〟の経歴にもかかわらず〝降ってきた〟公職追放指名。鳩山本人は後年、「少しも驚かなかった」と振り返っている(『鳩山一郎回顧録』)。
このような展開には「前奏曲」があったからだという。総選挙直前に行われた外国人プレスクラブでの〝吊し上げ事件〟。親しかった『ニューヨークタイムズ』記者に誘われて、気軽に引き受けた記者会見だった。
彼(ニューヨークタイムズ記者)が何か私のことを弁護していおうとすると(他の記者の)みんながワアワアいって「貴様、黙っとれ」といって総立ちになる。そうして私の著書の『世界の顔』(1938年刊『外遊日記 世界の顔』のこと)の中にこういうことが書いてある、ああいうことが書いてあると口々にいい出したが、これはあらかじめ英訳したものを列席の新聞記者に配布しているものと分った。随分無礼な奴らだと思った。私が何を言っても「それは原文と違う」と散々私をいじめた。そうして揚げ句の果てにその途中で決議みたような((ママ))ことをして、(占領軍)司令部に「追放しろ」とかなんとかいったそうだ。 (同『回顧録』)
問題の書は、戦前、政友会の幹部議員として出版した米国・欧州への視察旅行記で、その中にはヒトラーやムッソリーニ、ファシズムを称賛する記述も含まれていた(ただし、実際の原稿はジャーナリストのゴーストライターによるものだったという)。
さかのぼれば、すでに前年から鳩山には逆風が吹いていた。
敗戦の翌月、1945(昭和20)年9月15日付の『朝日新聞』に、鳩山は新たな政党についての構想を寄稿した(文章は当時の朝日記者で、その後鳩山の秘書官になった人物が代筆した)。するとこの文がGHQの怒りを買い、朝日は2日間の発行停止になってしまったのだ。
その私の論文には次のようなことが書かれていた。「……戦後復興の諸施策は如何。〝正義は力なり〟を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と、復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を率直に披瀝し、日本の民主主義的復興、国際貿易加入が米の利益、世界の福祉と相反せぬ事実を認識せしむることに努力の根基を置き、あくまで彼をして日本の復興に積極的協力を行わしむるごとく力を致さねばならぬ」。(略)あとから聞いたことだが(略)、司令部の係官は(朝日の編集局長を呼び出して)「戦勝国の米国を誹謗するとは何事だ、絶対に許せぬ」とカンカンに怒ったということである。こういうこともあって私はかねがねアメリカというものの不合理性や乱暴極まる点を知っていたので、私を追放したやり方には別に驚かなかった」 (同『回顧録』)
割れる評価
太平洋戦争の半ば以降、鳩山は事実上国会での活動から距離を置き、軽井沢を拠点に過ごしていた。8月15日の敗戦時は62歳。外務次官や衆議院議長を歴任した鳩山和夫を父に持ち、自身は32歳で衆議院の議席を得たエリート政治家だ。以来、内閣書記官長や文部大臣のポストに就き、すでに10回の当選を重ねていた。反東条、反軍部の政治家たちのリーダー格だった。
しかし、占領軍で新憲法制定や公職追放を担当した民生局(GS)の幹部らは、ニューディーラーやリベラルな思想の持ち主が中心で、保守的な鳩山の印象は良くなかった。増田弘・中島政希監修『鳩山一郎とその時代』によれば、鳩山を公職追放するかどうか、GS内部でもぎりぎりまで判断は保留され、幣原内閣に入閣させるなどの政治的妥協案も検討されたという。
実際、東条内閣が誕生する前の鳩山は、自身が主張するように自由主義者であったと言えるのか、軍国主義への迎合はなかったか、その評価はなかなか難しい。
上記の本などによると、GS内部の検討資料では、親軍的だった田中義一内閣(1927~29年)で内閣書記官長だったときの行動(治安維持法の最高刑を死刑に引き上げるなどした)、5・15事件(1932年)を受け就任した文相時代、滝川事件(※)で思想抑圧に関わったこと、著書『外遊日記』における親ナチス、親ファシズムの叙述などが、鳩山に対する否定的評価の材料として指摘されたという。
※京大の自由主義的な法学者・滝川幸辰教授が右翼の批判にさらされると、京大総長の拒否にも関わらずこれを休職処分とし、多くの京大教官が抗議の辞表を出すことになった。
一方で1940年、ライバル政党・立憲民政党の議員でありながら、斎藤隆夫が日中戦争への疑問を指摘したいわゆる「反軍演説」により衆議院議員を除名された際には、政友会鳩山派はその賛否の投票を棄権するなどして抵抗した。また大政翼賛会の結成、既存政党の解散にも抗って「同交会」という独自グループをつくったこと、東条が翼賛会強化のため院内につくった翼賛政治会からもその後離脱していることなどは、追放指名を不適切とするデータとして資料化されていたという。
結局、ぎりぎりまでGSの判断が遅れたのは、鳩山を軍国主義者、超国家主義者と見なす根拠が不十分なためだったが、GSの幹部らはGHQに対する鳩山の「傲慢な態度」をあくまで問題視、その首相就任が確実視される情勢になったためにパージに踏み切ったのだった。
GSの左派的なスタンスから見ると、鳩山が反共姿勢を強く打ち出したこともマイナス点だった。1946年2月、自由党は反共運動のため保守勢力の結集を呼びかける「反共宣言」を打ち出したが、当時はまだ冷戦の空気はなく、社会党などの左派・中道勢力に好意的だったGSは、鳩山の「保守反動」姿勢を警戒した。

さて、このように鳩山が政界から排除されたあと政権を託された吉田茂は、占領軍との良好な関係維持に腐心したが、元来保守的で反共姿勢の強い吉田もまた、GSに好印象を与えてはいなかった。吉田は同じ占領軍内部でも、GSと異なり保守色が強い参謀第2部(G2)との関係を強化した。
政界に足場を持たないまま首相に就任した吉田は、一年後の選挙で敗北したものの、日本社会党や民主党などの連立政権(片山哲内閣、芦田均内閣)が次々瓦解したために、第二次政権を組むチャンスを得た。そしてこのころから与党(当時は民主自由党)内に独自の基盤を構築する。1970年代のベストセラー、戸川猪佐武『小説吉田学校』の第一部には、次のような描写がある。
GSの反対を押し切って解散に踏み切る決意をした吉田は、自作の公認候補リストを公職追放中の側近・松野鶴平に指し示した。
「そのなかで、赤マルがついとるのが、私のあたらしい手駒だ」
松野は、さらりと眼をとおした。
「官界出身者ばかりですな」(略)
いま官房長官の佐藤栄作前運輸次官を先頭にして、大蔵次官池田勇人、外務次官岡崎勝男、労働次官吉武恵市、農林次官坂田英一と五人の次官がならんでいる。
外務省関係では、福田篤泰(文書課長、外相前秘書官)、北沢直吉(参事官、首相秘書)、大蔵省関係では前尾繁三郎(主税、造幣局長)(略)。
(略)五十人ちかい数になる。 (略)
「おそらく、あなたのワンマン体制が確立されることになりましょうな」と、松野は多少の皮肉をこめてそういった。
(略)それでも吉田は、この松野の皮肉と苦笑とを、機嫌よくうけとめた。
「ワンマンになることは、子供のときからの夢だったね」と笑った。
そしてこれら若手を政権の中で育て上げる、そんな〝吉田学校をつくりたい〟という野望を吉田は口にしたという。そんな印象的な場面描写だった。
占領軍との距離感、自身の〝手駒〟で政権を固めきるワンマンな姿勢。吉田のスタイルは、鳩山が立ち上げた保守政党内にやがて深刻な軋轢をつくり出してゆく。

(つづく)

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。
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