【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ
JR青梅線で奥多摩町内に入ってから二つ目の駅が古里[こり]駅だ。1955(昭和30)年、ここ古里村と隣の氷川町、そしてダム水没直前の小河内村の三つの自治体が合併し、奥多摩町が誕生した。青梅線に沿っていえば、古里駅の三つ先が終点の奥多摩駅。かつての氷川町の中心で、奥多摩町役場はここにある。小河内村があった奥多摩湖畔に向かうには、路線バス以外移動手段はない。
埋もれた山村工作隊事件
奥多摩町の図書館は、役場近くと古里駅近くの計二ヵ所。私は初回の訪問時に前者の氷川図書館に、約ひと月後の二回目にはやや大きい古里図書館に立ち寄った。たまたま出勤日のシフトが重なって、どちらの図書館でも対応してくれたのは、同じ女性だった。
「正直、その言葉を聞いたのは初めてです」
奥多摩で戦後最大級の事件だったはずの「山村工作隊」について資料の有無を尋ねると、意外にも彼女は初耳の語句だという。
結婚して奥多摩町民となり、以来約三十年。夫の家族からも周囲の年長者からも工作隊のことを聞いたことはないらしい。
古里図書館で偶然再会した際にも、「あのあとみんなに聞きましたが、奥多摩で生まれ育った職員も、誰ひとり事件を知りませんでした」と、申し訳なさそうに語ってくれた。
実際、全三巻の奥多摩町誌で「小河内貯水池」の章をひもといても、山村工作隊の語句は出てこない。
多摩川の下流から上流へ熱海、原、出野……と計二十二の集落が十枚の住宅地図に再現され、在りし日の村を書き留めたこの章には、末尾にダム事業の略年表も添付され、1926(大正15)年、東京市会の上水道をめぐる決議から始まって、1980(昭和55)年、第二取水施設工事竣工に至るまで八ページにわたって時系列で歴史がまとめられている。
小河内での山村工作隊の活動はその中ごろ、1951(昭和26)年の秋に始まったとされているが、その時期の年表の記載は、3月27日に転出者の移転料や補償基準などが合意に至ったこと、8月17日に都と村の調印式があり、9月16日に小河内の「解村式」が開かれたことなどがあるだけだ。
警官隊による計三回の工作隊アジト摘発は、翌年の春から夏にかけての出来事だが、この年以降の年表は、味気ない工事の段取りだけで埋まっている。
つまり、戦争を挟んで約二十年、対立が続いてきたダム建設問題は、共産党の工作隊が入村するまさに直前のタイミングで、歴史的な節目を迎えていた。共産党の若者らがいかに村人に働きかけようとも、地元ではもう「いまさら」という疲れ切った感覚が強かったに違いない。
図書館にあった文献では、唯一、平林久樹という元東京都(当初は東京市)水道局職員が書いた『湖底の村の人たちとともに』という本に、ほんの二ページほど、山村工作隊について触れられていた。
この著者の記憶では、「移転補償の交渉が進められていたころ」に二十数人の工作隊員が使っていなかった貯水池建設事務所の倉庫に入り込み、「移転民に都との交渉戦術を教示し、扇動」するようになったという。
だとすると町誌略年表の記述とは合致しないように思えるが、住民と都の合意がまだ結ばれないうちに初期メンバーは来ていたのか、それとも補償の細部の交渉がまだしばらく残されていたのか。
いずれにせよ、この本によると、工作隊のリーダーは、建設事務所で働く平林にも接触し、補償基準に異を唱える公開質問状を送り付けたりしたという。
1952(昭和27)年3月29日のアジト摘発(第一次)のときのことはこう書かれている。
ある朝五時ごろ(山村工作)隊員二十数名が検挙されてトラックで運ばれていくのをみた。彼らは大声で「村民の皆さん、すぐ帰ってきますから……」と叫びながら手錠のはまった両手を大きく振っていた。果たして約一週間後には釈放されて帰ってきた。しかし、その間に倉庫は取り壊されていたので隊員は蛇沢地区の洞窟にこもった。
同時代的にはもちろん大きく報じられた小河内の山村工作隊事件だが、地元にいる住民・関係者にしてみれば、いよいよダム建設が正式決定し、転出に向けた慌ただしい日々のなか、都心から闖入した若者らが引き起こした〝ちょっとした珍事〟としか認識しなかったかもしれない。

呼応する者はいなかった
村にとってダム建設が死活問題になったのは、むしろ戦前のことだった。町誌の記述によれば、当初、堰堤の建設予定地は、小河内村内でなくやや下流の古里村が有力視され、村民や周辺自治体の関係者らが賛否の大論争を繰り広げた結果、建設予定地は小河内に変わった。
しかし小河内では1931(昭和6)年に東京市の打診を受け、村長らが前向きな姿勢を見せたにもかかわらず、多摩川下流の神奈川県側で農業用水の減少を懸念する反対運動が起きるなど、さまざまな事情で事業は進展せず、用地の選定や買収・補償の条件など具体的なことが何も決まらぬまま村民は〝生殺しの状態〟に放置されてしまう。
一年後には決まるような口ぶりで補償金の話を聞かされた村民らは、細々と営む養蚕業などの生業から手を引いたため、二年、三年と待機状態が続くうち、生活苦に陥る人が続出した。やがて人々の不満は制御不能になり、事業の決定や村民救済の対処を急ぐよう、東京府、東京市に集団陳情を試みる事態になる。


この一連の状況は作家・大宅壮一のルポ「水底の小河内村」(『中央公論』1937年8月特大号)などで注目され、戦後、1948(昭和23)年には芥川賞作家・石川達三の小説『日蔭の村』によって寒村の悲劇として世に広く知れ渡る。
画家の桂川寛は著書『廃墟の前衛 回想の戦後美術』で、共産党系の「前衛美術会」メンバーとして画家五人の仲間と1952年6月、小河内の山村工作隊活動に加わった体験を書き記している。
彼らが潜り込んだアジトは小さな沢にある「大きな岩屋」(おそらく八畳岩)で、そこには前回の記事で触れた早大生・土本典昭もいた。画家たちの任務は謄写版で『週刊小河内』というパンフを刷り、ダム建設の労働者らに配ることだったが、桂川はこの回顧で石川の『日蔭の村』に言及した。
(戦前の反対運動は)かなり激しく、石川達三の小説『日蔭の村』の題材にもなって知られていた。このときの闘争でムシロ旗を掲げた村民の〝一揆〟は氷川町の下流、鳩ノ巣辺りまでくり出し警官隊と衝突して多くの怪我人を出したという話も残っている。(このときの生き残りの老人が二人ばかりまだ残っていて、ひとり身でこわれかけた小屋のなかで立ち退きを拒んで頑張っていて私たちに往時を語ってくれた。)
工作隊の若者にほとんど心を閉ざしたという小河内の村民だが、一部にはそんな接点もあったのだ。
略年表によれば、この〝一揆〟の勃発は1937年12月。『日蔭の村』では作品のクライマックスとしてこの場面が描かれている。
ダム建設の正式決定をずるずる引き延ばされ、村民の忍耐はもう限界に達していた。麦の種まきも養蚕の準備も、来年の居場所が決まらず放棄され、人々は家畜やものを切り売りし、あちこちにカネを借りて当座の生活費をつくっていた。そんな暮らしがすでに五年。立ち退き後にどこで暮らすのか。再出発に足る補償は得られるのか。何もかもが白紙のままだった。

こうして年の瀬の小学校校庭で村民大会が開かれた。
伝え聞く状況を説明しようとする村長に怒号が飛び、収拾がつかなくなりかけたとき、校庭に姿を見せたのは、小菅村と丹波山村、上流の山梨で水没する予定地の代表者だった。両村からはこの朝住民が大挙出発し、すでに東京府に向かっている。小河内の人々も抗議に立ち上がってくれないか──。
その言葉が一気に火をつける。松明を手に川沿いを歩き始める大群衆。村長も涙を流し隊列に加わった。
「われわれが村を犠牲にして立ちのくのは東京市民の生活のためだ。しかるに東京市民は(略)われわれを見殺しにして他人の事のように思っている」。そんなアジ演説が響く。
しかし明け方に氷川町に入ると、そこにはバス七台で集結した青梅署員が防御線を敷いていた。強行突破を試みる群衆も大乱闘の末、せき止められてしまう。結局、東京府に向かうことを許されたのは代表者二十人だけだった。
怒りと興奮が鎮まると、村は翌日から虚無感に包まれた。怪しげなブローカーたちに多くの人が家や土地を買いたたかれてしまう。ブラジル移民を呼びかける仲介者も出現した。主人公の男性のもとには、娘の身売りを持ちかける女衒が日参した。やがて背に腹は代えられず、主人公はその誘いを引き受けてしまった。
小河内村へ――。
共産党の各組織でそんなスローガンのビラを手にした若手党員らは、怒れる村人との共闘を思い描き、現地に向かったが、〝一揆〟からすでに十五年を経た小河内に、もはや呼応する者はいなかった。

(つづく)

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。
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