【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第52回◎三山喬 民主主義の〝軍〟を目指して(7)

【タイトル画像】1953年4月、防衛大学校(当時、保安大学校)に入学し、整列する一期生=神奈川県横須賀市。写真=共同通信イメージズ

「一期生には面白い人もいましてね」 
 防大四期の元陸上幕僚長・冨澤暉(とみざわ・ひかる 87歳)がそう言って名前を挙げたのは、源川幸夫(げんかわ・さちお 元東部方面総監、2020年死去)という先輩のことだった。 
 防大初期の学生が一人ひとり、旧軍にどんな思いを抱いていたのかは、おそらくバラつきがあったと見られるが、徹底して旧軍を嫌い、それを公言して憚らなかったのが、一期生のこの源川であったという。  

旧軍嫌いの一期生

「でもそれは無理もないんですよ」 
 冨澤によれば、源川は11歳の時、中国大陸で敗戦を迎えた引揚者だった。しかもこの少年にとって、日本の地を踏むまでの長い道のりはあまりにも過酷だった。遠く離れて住む両親の元に帰る途中、旧ソ連軍の満州侵攻で長距離列車は途中停車。そこからはたったひとり荒涼たる大地を彷徨って、一年以上を経て故国にたどり着いたのだ。一歩間違えば、中国残留孤児になっていてもおかしくない立場だった。 
「源川さんは『大陸の子』になっちゃったわけです」 
『毎日新聞』連載をまとめた『青春の小原台 防大一期の三十年』(四方洋 飯島一孝著)にも源川の「強烈な敗戦体験」は取り上げられている。 
 敗戦前、陸軍幼年学校への進学を目指し旅順に住む縁者の家に暮らしていた源川は戦局の悪化に伴い、1945年夏、1000キロ近く離れた旧満州・牡丹江[ぼたんこう]の親元に戻ろうとした。ところが、列車は牡丹江の南200キロほどの場所にある延吉[えんきつ]の街で動かなくなってしまう。たまたまこの街にいた両親の知人宅に数日間身を寄せたが、やがてここにもソ連軍接近の報が届き、日本人居留民は散り散りになって南方へと向かった。源川少年に保護者代わりになる大人はいなかった。 

飢えをしのぐために食べ物を盗んだり、残飯をあさったりした。日本の敗戦後の浮浪児と同じ生活だった。やがて極寒の冬がやってきた。寒さをしのぐため、軒下を探し歩いて寝た。凍死の危機にも見舞われたが、運良く中国八路軍(筆者注、共産党軍)の兵隊に助けられた。部隊の雑用をして働き、その後は食べ物と寝る所に不自由はしなくなった。それは天国にも昇る思いだった。 

 命じられる雑用は主に部隊の飯炊きだったという。 
 やがて日本に向かう引き揚げ船が出るといううわさを聞き、源川は部隊の兵隊に「日本に帰してくれ」と申し出た。最初はにべもなく撥ねつけられていたが、粘り強く頼み続けるうち、ある土地の日本人居留民会に引き渡してくれたという。日本に引き揚げて両親や妹と再会できたのは1946年秋のことだった。 
「12歳の少年だったので(兵隊にするには幼過ぎたため)帰してくれたのだろう」と、源川は『青春の小原台』で語っている。 

 冨澤によれば、そんなバックグラウンドから源川は徹底した旧軍嫌いで有名だったという。「関東軍は女子どもをほっぽって、自分たちだけ逃げちゃった。とんでもない連中だってね。戦時中、関東軍にいた人たちは、部隊は一旦後方で態勢を立て直す予定でいて仕方なかったと言う。それでも民間人を置いて行ったのは事実でした」 
 1957年刊、防大一期生の『卒業写真帖』を改めてひもとくと、そこには制服姿、そして相撲の回しを締めた姿の写真2点とともに、源川のこんな人物評が記されている。 

 明るい性格の反面、一人でいると、孤独の影を漂わす様に、内省的な求道性が強く、人の避けたがる仕事もかって出る積極的な正義漢でもある。意志が強いから勝負も強い。柔道でも豪放な荒業を得意とする。

 冨澤は、敗戦時の旧満州を語る流れから、根本博という中将の存在についても言及した。内モンゴルに近い張家口[ちょうかこう]という街に布陣した駐蒙軍の司令官。部隊には関東軍司令部から武装解除命令が届いていたのだが、根本はこれを無視することを決め、敗戦後も部隊を率いてソ連軍に応戦した。街にいた約四万人の日本人居留民を港町・天津に逃がすための時間稼ぎだった。 
「武装解除命令を無視したのは、天皇の勅令に背く行動です。でも根本中将は同胞を救うのは自分たちの潜在的任務だから、と多くの戦死者を出しながらも戦った。満州には、そういう軍人もいたんです」 

 源川の旧軍嫌いはのちに、こんな問題も引き起こした。旧陸軍出身者の組織・偕行社に自衛隊出身者の入会も認められ、防大一期生から理事長を出すことになった際、自身の名が候補者に挙がったことを知った源川は「なんで俺が」と強く反発してこれを拒んだのだ(防大卒の初代偕行社理事長には2012年、一期生の志摩篤が就任。冨澤はその後任の理事長を務めた)。 
 生前、よほど親しい間柄だったのだろう。源川を語る冨澤の呼び方はいつしか「源さん」に変わっていた。 
「『源さん、そんなこと言うけど、士官学校出の先輩にもいいところはあったじゃないですか。我々だって気がつけば部隊の後輩には、旧軍からの教えを伝えていたわけだし』。そんなふうに説得したけれど、ダメでしたね。『旧陸軍をオレは許せない』とそれだけ。源さんの気持ちもわかるから、説得は出来ませんでした」 

防大一期生の『卒業写真帖』に掲載された、制服姿、相撲の回しを締めた姿の源川幸夫

 私は、冨澤が語る関東軍の逸話を聞き、かつて数年間、現地でさまざまに体験談を聞いた沖縄戦の悲劇を連想した。また新聞記者時代、フィリピン引揚者から取材した軍民入り交じる敗戦時の逃避行の話も想起した。フィリピンでも沖縄同様に、民間人の集団自殺が起きていた。 
 私は半ば突き放した答えを予期しつつ、ふと浮かんだ思いを口にした。 
「軍隊はもちろん勝利を目的とする組織ですが、先の大戦のことを考えると、どのように負けるかという『負け方』を考えることも大事かもしれませんね。現実の敗戦時にはそれどころではないかもしれませんが、のちのちまで語り継がれることもありますから」 
 意外にも冨澤も同意してくれた。 
「難しいのは、自衛隊では任務分析と言いますが、果すべき任務にそこにいる民間人を守ることも含まれるのかどうか。はっきりした形で命令が出るわけではないことです。現場は悩みますよ。でもそれを考えなかった旧軍がよかったとは思わない。いまの軍隊はそういったことも考えていく必要があると思います」 

南京事件をめぐる見解

 冨澤の話は、戦後延々と論争が続いてきた南京事件にも及んだ。 
「私が偕行社の理事長だったとき(2016~18年)腹が立ったのは、(組織の機関誌)『偕行』の担当者との間で『旧軍のいいところ、悪いところ、どちらもどんどん載せていきましょう』と意見が一致したと思ったら、その人は『南京事件などなかった』と思い込んでいる右の人でした。偕行社ではすでに、この問題には結論が出ているんです。旧軍は一万何千人かの中国人捕虜を殺害した。二十万人とか三十万人とかそんな数字じゃないですが、非人道的なことをしたのは間違いない。それでも未だにそれを否定する人たちが偕行社の会員にもいるんです」 
 冨澤の言う「偕行社の結論」とは、1984~85年、『偕行』の誌面で南京戦体験者の声を募集、「証言による『南京戦史』」という連載記事(のちに書籍化)にした際に、その最後に加登川幸太郎[かとがわ・こうたろう]という編集責任者が「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と謝罪文を書いたことを指す。 

「加登川という人は当初、そんな虐殺の証拠はないという考えでいたのですが、防大の私の同期に原剛という戦史に詳しい男(当時は防衛研究所所属)がいて、『(南京にいた)各連隊の戦闘詳報を見ると、捕虜を何千人処置した、という記録がいくつも出てきます』という彼の話を聞き、考えを改めたんです。最初は『お前は戦争のことを何も知らん』と怒鳴りつけたそうですが、原は立派ですよ。『公式文書に記録がある以上、国は責任を免れないはずです』と一歩も引かなかった。ただ、誌面で虐殺を認めた加登川さんのもとには、偕行社の先輩会員から抗議が殺到し、彼は組織に居場所を失ってしまいました。ひどい話ですよ。きちんと史料をもとにして議論を積み上げるのでなく、ろくに調べもしない人たちが勝手なことを言う。SNSの時代になり、そういうのはもっとひどくなっていると思いますよ」 

 帝国陸海軍の「謂れなき汚辱を晴らす」のはもちろん、「謂れある汚辱は反省し、後輩に伝えること」も自分たちの務めだと考える――私は冨澤が『文藝春秋』のエッセイに綴った一文を改めて思う。そしてこの姿勢がもし、彼ひとりの思いにとどまらず、自衛隊全体の指針として共有されたなら、それこそが旧軍と「民主主義の軍」を明確に分かつ楔になるように感じる。 

(この項 終わり) 

防衛大学校(同校のホームページから)
三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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