第73回 サギ山とムシとヒトと
私の家から遠くない場所に、サギが集まって繁殖する林(通称サギ山)がある。サギ類は春になると、通常水辺からさほど離れていない特定の林に多数集結し、高木の上で営巣・産卵・子育てを行う。地域にもよるが、だいたい夏の終わり頃には繁殖を終え、親鳥と巣立った若鳥ともどもサギ山から撤収していなくなる。
夏のサギ山は、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。昼夜を問わず、数十数百のサギ共が大音量の奇声を張り上げる。樹上から雨あられの如く糞とゲロ(固形の未消化物)を撒き散らす。体から剥がれた羽毛、そしてフケが粉雪のように大量に舞い落ちる。おまけに巣から足を踏み外したり、衰弱したヒナが毎日のようにボトボト墜落死する。死体は地表を徘徊する獣にすぐさま食い散らかされ、ボロ雑巾のようにズタズタの腐った肉片と化す。音と悪臭、地面に積み上がる死体と汚物。百害あって一利なし。人の居住区の傍にサギ山が出来てしまうと、すぐさま役場の環境課あたりが追い出しにかかることになる。


しかし、この地獄の煮凝りのような場所は、一部の酔狂な昆虫達にとってはまたとないユートピアだ。まだ腐敗がそこまで進行していない死体には、多くのシデムシの仲間がやってきて、死肉ないしそれに湧くハエのウジを暴食する。肉も腐り果てて骨と羽だけになると、今度は糞転がしの一種コブスジコガネの類が集まる。ケラチンを分解できる稀有な生物たる彼らは、誰も食べない羽毛や爪を食い尽くし、地上から消す役割を担う。未消化物を含むサギのゲロも、彼らは食う。こうして、積み上がった汚物はたちまち昆虫達が子孫を残すための糧として消費される。死から命を再生する、まさに命の錬金術師達。


夏の終わりも近いある日、中途半端な時間を潰す必要に駆られた私は、何か面白いものが見られることを期待してサギ山まで足を運んだ。果たして現地に着いた私は、巣が集中して架かるエリアから外れた場所の地べたに、新しくサギの死体が落ちているのを見た。そこへ、どこかから赤っぽくてそこそこでかい甲虫が一匹、弾丸のごとく一直線に飛んできて死体に着弾した。ベッコウヒラタシデムシだ。近年、住宅街にはなかなかいない甲虫で、久々に見た。昨今、衛生状態の向上と共に、そこらの道端で動物の死体もそうそう転がっていない我が国において、こうしたサギ山は彼らにとって僅かに残された安住の地なのだ。

その帰り、サギ山に近接した家に住むという老婆とたまたま道端で話す機会があった。臭いと騒音で、サギ山側の窓は夏でも開けられず、隣の家で大学受験を控えた高校生が気の毒だ、あんな林さっさと更地にすればいいのに、と苦々しく彼女の語るのに適当な相槌を打ちながら、私は自然と人間との共存の難しさを改めて思い知らされた。

こまつ・たかし 1982年神奈川県生まれ。九州大学熱帯農学研究センターを経て、現在はフリーの昆虫学者として活動。『怪虫ざんまい―昆虫学者は今日も挙動不審』『昆虫学者はやめられない─裏山の奇人、徘徊の記』(ともに新潮社)など、著作多数。