第14回 雨粒は涙の形をしていない
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
雨のイベントが雨で中止!?
朝から空を覆っていた灰色の雲が、昼前になると、いよいよ低く垂れ込めてきた。
「そっちのパネル、立てるの手伝って!」
大学の中庭で千夏が声を張り上げた。サス研は学園祭で、子ども向けの観察会を開く予定だった。題して「雨を見てみよう」。小麦粉をうっすらと皿にまんべなく敷いて、雨の中に置く。粒状になった塊を選り分け、大きさを測定する。
「ほんとにやるの?」
湊が空を見上げる。
「雨が降りそうだけど」
「雨の観察会なんだから、降ってもらわなきゃ困るの」
千夏が言い切った直後、湊の鼻先に一滴の雨が落ちた。ぽつ、ぽつ、とパネルに黒い染みがつく。
「ほら、ちょうどいい──」
〝ザアアアアッ〟
雨は突然、白い幕のように中庭を覆った。
「全然ちょうどよくない!」
4人は容器やパネルを抱えて、校舎内へ駆け込んだ。わずか数十秒で、湊の髪から水が滴り、千夏のスニーカーはすっかり濡れていた。
「雨のイベントが雨で中止って、どういうことよ」
千夏は救い出したポスターを壁に立てかけた。そこには、青い雨粒がいくつも描かれている。下が丸く、上が細くとがった涙形だ。湊がそれを見て笑った。
「雨粒まで泣いてる。イベント中止が悲しいんじゃない?」
「縁起でもないこと言わないで」
「でも、その絵」
湧がポスターをのぞき込んだ。
「本物の雨粒とは形が違うよ」
「え?」
「雨粒は、涙の形をしてないんだ」

雨粒と水滴は違う?
千夏はポスターを指さした。
「何言ってるの? 天気予報の雨マークだってこの形じゃない」
「それは、雨だとわかりやすくするための記号」
「でも、水滴って実際に先が丸まってるだろ」
湊が軒先を指さす。屋根の縁から垂れた水が、下へ細長く伸びていた。
「ほら。涙形」
「それは、まだ落ちていないから」
湧は観察会で使う予定だったスポイトを取り出した。先端からゆっくり水を押し出すと、水滴は次第に膨らみ、下へ引っぱられて細長くなった。
「スポイトにくっついた部分は動けない。でも、膨らんだ部分は重力に引かれる。だから落ちる前は、こういう形になる」

水滴が先端を離れ、容器へ落ちた。千夏がスマートフォンのスローモーション機能で撮影する。再生してみると、水滴はスポイトを離れたあと、細長い形から丸い形へ変わっていた。
「ほんとだ」
「水の表面張力が働くからだよ」
湧はもう一滴、水を落とした。
「水の分子は互いに引き合って、できるだけまとまろうとする。同じ体積なら、球がいちばん表面積の小さい形なんだ」
「水って、けっこう仲間意識が強いんだな」
湊が言う。
「1人だけ外側にいたくない、と考えると、少しかわいいわね」
詩音が笑った。
「水に性格をつけないで」
湧は苦笑した。
丸くなりたい水、押しつぶす空気
「じゃあ、空から落ちてくる雨粒は、全部まん丸なの?」
千夏が尋ねた。
「小さな雨粒はね。でも、大きくなると形が変わる」
湧は観察会用に用意していた資料をタブレットに表示した。直径1ミリ以下の雨粒は、ほぼ球形。ところが3ミリほどになると底が平らになり、さらに大きくなると横に広がって、下側の中央がへこんでいく。
「大きな雨粒ほど速く落ちる。すると、下から吹きつける空気の力も強くなるんだ」
湧は片方の手を丸め、もう片方の手で下から押した。
「表面張力は雨粒を丸くしようとする。でも、空気は下から押して平たくしようとする。そのせめぎ合いで形が決まる」
画面の雨粒は、上が丸く、下が平らだった。

「ハンバーガーの上のパンみたい」
千夏が言う。
「まんじゅうにも見える」
湊が続ける。
「どっちにしても、涙より食べものに近いな(笑)」
「もういや、ロマンがない」
千夏は不満そうに唇をとがらせた。その横で、詩音が別の映像に気づいた。
「この雨粒は、ずいぶん変わった形ね」
画面では、大きな雨粒が下にある小さな雨粒に追いつき、衝突した。次の瞬間、2つの雨粒は薄い膜のように広がった。逆さのクラゲにも、風に壊された傘にも見える。膜の縁からは、細かな水滴が飛び散った。
「雨粒同士がぶつかったんだ」
大きさの違う雨粒は落ちる速さも違う。そのため、落下中に追いつき、衝突することがある。ぶつかった雨粒は1つになる場合もあれば、変形して複数の粒に分かれる場合もある。 1970年代にはトロント大学で雨粒の衝突が撮影され、研究者たちが形に応じた名前をつけた。
「この形はsheet型。薄いシートみたいに広がるから」
映像が切り替わる。今度は小さな雨粒が、大きな雨粒の端をかすめた。大きな雨粒から細い水の糸が伸び、その先に小さな粒がぶら下がっている。
「こっちはneck型。首みたいな細い部分が伸びる」
「あっ」
湊が画面を指さした。
「これ、涙形じゃないか?」
3人が画面に顔を近づけた。たしかにその一瞬だけは、丸い粒から細い尾が伸び、涙のような形になっていた。
「でも、この形でずっと落ちているわけじゃない」
湧が映像を巻き戻す。
「2つの雨粒がぶつかって、離れるまでの一瞬だけだよ」
詩音が静かに言った。
「雨粒は涙の形をしていない。でも、別の雨粒と出会ったとき、ほんの一瞬、涙の形になることがあるのね」
雨粒は空で変身する
千夏は壁に立てかけたポスターを見た。そこには、同じ形の雨粒が同じ向きに並んでいる。しばらく考えたあと、彼女はペンを取り出した。
「中止にするの、やめた」
「えーっ、外はまだ大雨だけど」
「室内でやるの」
ポスターに太い文字を書き加える。
「本物の雨粒を見たことがありますか?」
涙形の雨粒の隣には、丸い粒、まんじゅう形の粒、クラゲのように広がった粒を描き足した。
「スポイトの実験をして、衝突する映像を見せて、何の形に見えるか子どもたちに考えてもらう。これならできるでしょ」
「最初の間違った絵も、そのままでいいんじゃない?」
詩音が言った。
「どうして?」
「『本当にこの形でしょうか』って、最初の問題にできるもの」
午後になると、雨は次第に弱くなった。室内観察会を終えた4人が校舎を出るころには、雲の切れ間から淡い光が差していた。軒先に大きな水滴が膨らんでいる。
水滴は下へ伸び、細くなり、やがて屋根を離れた。空中で丸く形を変え、下の水たまりへ落ちる。
〝ぽちゃん〟
小さな王冠のようなしぶきが立ち、すぐに崩れて、丸い波紋になった。
「丸くなったり、平たくなったり、クラゲになったり、王冠になったり」
湊が言った。
「雨粒って、忙しいな」
「決まった一つの形がないから、出会うものによって姿を変えられるのかもしれないわね」
詩音の言葉を聞きながら、千夏はポスターを抱え直した。
「結局、私の描いた涙形は間違いだったの?」
「普通に落ちている雨粒ならね」
湧はそう答えてから、雨上がりの空を見上げた。
「でも、ほかの雨粒とぶつかった一瞬なら、あんな形になることもある」
雨粒は、涙の形をしていない。けれど、空から地上へ落ちる途中で、ぶつかり、つながり、離れながら、ほんの一瞬だけ涙に似た姿を見せる。
水たまりの上では、いくつもの波紋が広がり、出会い、また新しい形をつくっていた。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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