【連載】ライター稼業渡世日記 ──出会った人びと 歩いた街々◎岡崎武志 第10回

1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。 
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?  
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。 

シンガポールへ社員旅行

 ほとんど毎日のように古本屋めぐりをしていると、思わぬことに出くわすものだ。某日、某所の店頭均一で『十人十色』を発見。110円。1990年12月号は未所持の号だ。表紙はなぜかジェームス・ディーン。売りものの企画「徹底ひとデータ」は、ある人物を取り上げ、その生涯を項目別に分析、紹介するページだ。私もほぼ毎月、誰かを担当した。この号は三島由紀夫。署名がないので誰がやったか不明だが、私のような気もする。 

 この号の取材ものではっきり記憶にあるのは刀匠の吉原義人[よしんど]さんと、気球の冒険者・神田道夫さん。三十六年ぶりに読み返して思い出したこといくつか。 
 雑誌編集者になって新しい体験となったのは、それまで触れ得なかったさまざまな職種や職能の人に取材し、それを文章化したこと。吉原さんは仕事場を訪問、刀の鍛錬の作業を見学した。火入れした刀を冷ます、水を張った穴があったのだが、そこへ足を突っ込んでしまった。おかげでずぶ濡れのズボン裾と靴のまま帰りの電車に乗った。覚えているのはそれだけ。そうか、吉原さんの仕事場は葛飾柴又の帝釈天近くだったのか。『男はつらいよ!』の舞台になった土地だが、その意識はなかった。 

 気球の神田さんは当時町役場の勤め人だった。女性カメラマンと組んで、その役場をめざしたのだが、とにかくあまりに遠くて、約束の時間から少し遅刻してしまった。いま確かめたら、埼玉県比企郡川島町。おそらく高崎線北本駅からバスに乗ったか、歩いたのではなかったか。こうして、雑誌編集者にでもなっていなかったら、見知らぬ土地や町を訪ね歩くこともなかった。神田さんはけっこうシビアで、写真を何点かお借りしたが、一枚いくらとお金を取られた。役場勤めでしっかりしていらっしゃる、というより気球の冒険にはお金がかかるのだった。 
 2008年、栃木県から太平洋横断を目指し気球に乗った神田さんが、その後消息不明になった。これはニュースで大きく取り上げられたので、「あ、これはあの神田さんだ」と思い出したわけである。吉原さんは検索するとまだご存命で、あのスピルバーグが作刀を依頼した、とあった。どちらも印象深い仕事であった。

 神田道夫さんの取材文で、これはたしかに私の仕事だと確信できたのは次の箇所。神田さんは2億円の資金を集め、世界初の熱気球によるエベレスト越えを果たしていた。富士山越えを果たして、すぐ決意したという。 
「人間の値打ちは想ったことを想いだけで終らせてしまうか、その想いを具現化するための階段を一段一段登り続けることが出来るかどうかという点に集約される」 
 かなり気負った文章だが、これは当時愛読していた野球評論家の近藤唯之の文章の模倣である。講談調の名調子でやや大げさに集約するのが近藤節で、それに惹かれていたのだ。 

 とにかく編集者生活に慣れ、上京して二年目の1991年を迎えることになった。雑誌は順調に出続け、6月にはシンガポールへ社員旅行をしている。私にとっては初めての海外旅行だった。格安ツアーだったためか、着いていきなりバスでおみやげ物屋へ連れ回された。免税品にも宝飾品にも興味のない私は、その間、裏町をぶらついた。通りを隔て、4階建てぐらいの住宅の窓と窓を長い竿でつなぎ、そこに洗濯物を干しているのを珍しいものとして見た。あとはフードコートで販売されていたドリアンの強烈な匂い。 
 この旅行には編集長の奥さんと、奥さんの姉も同行していて、ホテルに帰る際、タクシーに同乗したら、「岡崎さん、あなた高校の先生だったんでしょ。英語で通訳してね」と言われたのには参った。編集長にはよく飲みにつれていってもらったが、バーのマダムなどにも「こいつ、最近入った奴で、大阪で先生やってたんですよ」と必ず紹介された。「まあ、佐藤さんのところの人はみんな優秀ね」などと言われた。教師という職業が、何か特別なものとして意識されていたという実感を持った。 
 そうそう、1991年のいつだったか、雑誌創刊一周年記念でホテルオークラの広間を借り切ってパーティも開いている。私はスーツ姿にネクタイを締めて、慣れない賓客の接待をさせられた。その晩はホテルオークラの客室に泊まった。ホテルオークラに宿泊するとは、上京した時には思いもよらなかった。しかし、それは最後に打ち上げた花火だったのである。 

実体経済から乖離していたバブル経済が崩壊するまさにそのとき、社員旅行でシンガポールに行った

退職す

『十人十色』は、もともと経済誌にいた社長兼編集長が、そこで培った人脈で広告を含む資金提供を受けて発行されていた雑誌だった。つまり広告で成り立っていた。しかし、1991年のバブル崩壊で、潮を引くように広告主が撤退していく。シンガポールへの社員旅行はあだ花で、夏になると雑誌そのものが休刊状態に入った。 
 その悪い時期に入る少し前に、入社してきたのが若い男性編集者のОくん。ファッションも髪型も決まったシティボーイの典型だった。初めて後輩ができて、すぐ仲良くなり、会社が引けてからよく飲みに行った。 
 あれは夏だったか。新宿で朝まで飲み、調子に乗って夜明けの新宿御苑の柵を乗り越えて、不法侵入をした。無人の新宿御苑の芝生に寝転がって見る新宿の夜明けは美しかった。 

 雑誌は出なくても出社は命じられ、毎日、再開を目指す次号へ向けて会議が開かれた。とにかく編集部にいてもやることがなく、編集長の息子のYくんと、倉本聰脚本のドラマ『ライスカレー』を再放送で毎日見ていた。ときにYくんに声をかけ「海見に行こうか」とバスに乗って晴海ふ頭へ出かけたこともある。することがないのに毎日出社する。不思議な時間が続いた。 
 そのうち給料の遅配が始まった。10月になったら、半分だけとか、とにかく生活が追い詰められていった。11月に入って、事務所で購読している新聞の集金人が来て、「どうしても払ってくれ」というので、仕方なく自分の財布から新聞代を立て替えた時、もうここまでと退社を申し出た。時代の経済事情そのものが坂道を転がり落ちるように底へ向かっており、どう考えても雑誌の再開はありえない。決意は早かった。退職願は口頭ですぐ受理されると、後ろの席に座っていたО君が、タイミングを計っていたように「あ、じゃあぼくも辞めます」と便乗して辞めた。彼とは退社後もいろいろ付き合いが続く。 
 上京して2ヵ月目に編集部に拾われ、それから一年数ヵ月、乗っていた船がいきなり沈没した気分であった。だからといって、大阪へ舞い戻る気はまったくなかった。すでに三十代半ばで、どの面下げて大阪へ帰れるか。この頃には『十人十色』で相当量の原稿執筆をこなしていた。この経験を生かして、東京の縁にしがみつくしかない。 

校正の派遣で食いつなぐ

 一緒に退社したО君から連絡があり、「派遣で校正の仕事をやっているんですが、一緒にいかがですか」と誘いを受けた。これは助かった。「本式に学んだわけじゃないから、あんまり自信がない」とО君にこぼすと、「いや大丈夫ですよ。経験のない主婦やライターや学生もいますし、雑誌経験のある岡崎さんなら大丈夫」と言われて、事務所の女性社長に会いに行った。少し話をすると、案の定すぐパスしてさっそくあちこち出かけて行った。 

 虎ノ門にあった雑誌社、勝どきでは旅行雑誌、小石川の印刷所などが定期的に仕事のある場所で、いずれも何日か、詰めて通うことになった。とにかく座ってこなせる仕事で、しかもギャラはよかった。当面、なんとか食べていく基盤はこれで確保できたのである。 
 しかし、いま考えると、まったく低レベルの技術しかなく、ただ原稿とゲラを突き合わせて訂正を入れるぐらいしかできなかった。編集者から「表記統一もお願いしますね」とクレームが来た。恥ずかしながら、同じ雑誌で表記の統一があるということも知らなかったのである。あと、誤植には気づけば手を入れたが、たとえば年代や固有名詞の事実確認も怠った。いちおう国語辞書も持参したが、ほとんど開くこともなかった。いや、ひどいものだった。後年、このざまを思い出すと冷や汗が出た。「すいませんでした」と謝りたい気持ちである。 
 ほかの主婦や食いはぐれたライターたちも同じようなレベルで、たぶん事務所にはクレームが入っただろうと思われるが、女性社長は一度もわれわれをとがめることがなかった。いい職場であった。 
 旅行雑誌を出していた勝どきのビルは特に思い出深い。まだ都営大江戸線が開通する前で、現在なら「勝どき駅」が最寄りとなるが、三十数年前は日比谷線「築地駅」から歩いた。晴海通りを南下し、勝鬨橋で隅田川を渡る。勝鬨橋がかつては開閉していたことは、古い日本映画で見ていた。『東京の恋人』では、原節子が都電に乗ってこの橋を渡る。 
 とにかく長い鉄橋で、トラックが通り過ぎると振動で揺れた。冬はふきっさらしとなり、たいそう寒い。あちこちで顔を合わせる食いはぐれのフリーライターたちと仲間になり、いつも五、六人連れ立って、帰りには築地あたりでご飯を食べたりお酒を飲んだり、仲良くなった。草食系というのか、みな口数が少なくおとなしい。当然ながら私がいちばん年上で、しかも元教師とあって、なんとなく担任が生徒を引き連れるという格好になった。気を使って、話を回したり、笑わせたりするのも私の役目。 
 ある時、若いライターの女の子から、「なんとなくですけど、岡崎さんって寅さんみたいですね」と言われた。「へえ、俺は寅さんか。するってえと、さしずめ君たちはインテリか」と驚きながら心で思った。 

勝鬨橋。橋の名は日露戦争勝利にちなむ。1933年着工、1940年竣工。むかし、ショーケンが主演した『河を渡ったあの夏の日々』(山田太一・作)というドラマがあった。岡崎さんの川を渡った日々は派遣で食いつなぐ日々だった
映画『東京の恋人』

1952年公開の東宝映画。監督は千葉泰樹。主演は原節子、三船敏郎。銀座の宝石店の前で似顔絵描きをしている原と、靴磨きをしている3人の青年。宝石の偽物作りの名人(三船)が宝石店に持ち込んだダイヤをめぐって騒動になる。

(つづく)

タイトル文字・写真・イラスト=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。

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