1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。
名簿図書館と試写室
思えば不思議だと、たとえば1990年の曙橋駅頭(地下鉄都営新宿線)に立って考えることがあった。
半年前までは大阪にいて、一段高いところから黒板を背負い、「ええか、漱石の漱は、さんずい忘れたらあかんで」などと言っていたのに(国語の高校教師をしていた)、いまでは、毎日のように知らない町へ出かけていき、新しい体験をしていた。JIS規格以外の文字を使うのに、写植屋へ行って文字を売ってもらう、なんてのもその一つ。「写植」という言葉さえそれまでは知らなかったのである。
『十人十色』は、写真をたくさん使う雑誌だったので、素材写真をあちこちへ借りに行くのも仕事の一つ。日刊スポーツ、毎日新聞社などは膨大な資料写真のストックがあり、有料で貸し出していた。これがけっこう高くつくのであった。毎日新聞社は、のち毎週のごとく通うようになるのだが、竹橋駅から地上に出るとすぐ背中に濠をへだてて皇居があった。東京駅まで歩けるのかと、手放せなくなっていた東京の都市区分地図を見て知った。少しずつ、東京が手中でなじんでいく。

前回も触れたが、『十人十色』の名物企画の一つが「あなたの街の金持ちマップ」。その街の長者番付にランキングされるような金持ちを、納税額と住所を記し、地図の上にマーキングして紹介する、というページだ。個人情報保護法案通過以前とはいえ、大胆な企画だ。
納税額や住所をどうやって調べるかといえば、当時、新橋に「名簿図書館」なるものが存在した。あらゆる業界の著名人物について、住所ほかを記載した名簿を取り揃えていた。ちょっと記憶は薄れているが、まず入館料を払い、目当ての名簿を棚から抜き出して、該当ページをコピー(有料)してもらうシステムだったと思う。違法ではないのだろうが、ちょっと裏稼業に手を出すという背徳感を覚えながら、新橋の古いビルの一室へ足を運んだのだった。
新橋駅西口(現在の日比谷口)にチェーン店ではない牛丼店があり、牛肉、玉ねぎのほか、豆腐やしらたきの乗ったすきやき風の牛丼を食べさせ、これがうまかった。牛丼そのものを初めて食べたのもここかもしれない。
「金持ちマップ」で初めて私が担当したのが「目黒区」。名簿図書館で仕入れた住所録のコピーを、住宅地図(ゼンリン)にマーキングして出かけていく。高額納税者の豪邸を、「はあ~」とため息つきながら眺め、カメラに収めてくる。これが仕事。巡回する警官にいつ呼び止められ誰何されるかとビクビクものであった。しかしまあ、楽な仕事だ。知らない街を、そうして歩くのも楽しかったし。
目黒区三田はポーランド、アルジェリアなど各国大使館がある高級住宅地。該当する号が手元になく、誰をターゲットにしていたか忘れたが、住宅街を歩きながら「目黒区三田といえば、丸谷才一が住んでいるあたりだ」とふと思った。私は丸谷才一の小説、評論、エッセイのファンだった。角地にある目当ての邸宅をカメラに収めようとしたとき、ファインダー内に紙袋を提げたポロシャツ姿の男性が入ってきて、思わずシャッターを押した。なんと、それが丸谷才一だったのである。
「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、証拠写真が残してある。今すぐ、「どうだ、これだ」と出せないのが歯がゆい。私が死んだら、整理にあたった方にくれぐれもこの一枚の探索を頼みたい。

今回、入手した『十人十色』を読んで、自分の参加で、新たに企画が加わったと気づくことがあった。それはいわばカルチャー路線。創刊1周年号となる1991年5月号巻末に見える「いまこの映画が見たい!」という映画紹介のページ。これは私の進言でできた企画だった。1ページに4本。やや長めのメイン1作と、ほか3作の短評で構成されている。これは好きな分野だけに力が入りました。
なにより、見本誌を各映画会社に送ると、試写会招待状が舞い込むようになった。創刊して1年の無名雑誌でも、宣伝部はそれが仕事と割り切ってか、私のデスクに試写の案内を送ってくれたのだ。じつは、取り扱う4本をすべて見られたわけではない。見たのは2本か3本か、あとは送られたプレスリリースを読んで紹介するにとどまった。
それでも仕事という名目で、各映画会社の試写室、あるいは銀座のヤマハホールや土橋[どばし](銀座と新橋の境目あたり)の地下にあった試写室などに通うのは楽しかった。実際の封切りより、数ヵ月から半年早く、話題作を見る優越感もあった。ここで、大勢の著名人や映画評論家を目撃することになる。私はミーハーのお上りさんだったから、あの人この人を室内に認めると興奮した。
あれは20世紀フォックスか。大きな試写室で淀川長治さんを見た。身体が小さく、席にめりこむように座り、淀川さんクラスになると宣伝部のお付きの人がいるのか、両側にそれらしい人を従え、談笑していた。あの淀川長治と同じ空間で私は今映画を見ている。こんなことは大阪では考えられなかった。
ヤマハホールでは、階段状になった客席の一番後ろ近く、あの丸い毛糸帽子をかぶった田中小実昌[たなか・こみまさ]さんがいた。お昼がまだだったのか、映画が始まる前(相当早くにきている感じ)、バッグからパンを出して食べていた。「あ、コミさんがいる」。うれしかったなあ。
松竹の試写室では、私の隣に来た人がいて、すぐに映画評論家の佐藤忠男さんだと分かった。これは試写の後、山田洋次監督にインタビューするためだったから『息子』か。
そのほか、挙げだすときりがないが、一番強烈だったのが、あれはどこだったか、私のちょうど後ろに立川談志が座った。おつきの女性に、「いや、さいきん〇〇を見たけど、あれはひどかったねえ」などと映画の話をしている。その後すぐ、筑紫哲也が某女優と連れ添って現れ、談志を見つけると「あ、来てたの?」などと声をかけて、二言三言、言葉を交わした。これはえらいことになったぞと、おかげでこの日、何を見たのかさっぱり思い出せない。
とにかく井の中の蛙が、井戸の外へ出て、いきなり直射日光を浴びたような気分であった。ちなみに1991年5月号で取り上げた作品は次の4作。
大林宣彦『ふたり』(松竹)、ペニー・マーシャル『レナードの朝』(コロンビア)、ケビン・コスナー『ダンス・ウィズ・ウルブス』(東宝東和)、ベルナルド・ベルトルッチ『シェルタリング・スカイ』(松竹富士)。この月は当たり月か、意欲作、大作ぞろい。『レナードの朝』はあんまり感動して、映画が終わってもしばらく立てなかった。
いやあ、映画って本当に素晴らしいですね……。そういえば水野晴郎にはお目にかかれなかった。

・淀川長治(1909〜1998) 映画の素晴らしさを伝え続けた伝説の映画評論家。「さよなら、さよなら、さよなら」。
・田中小実昌(1925〜2000) バーテンダー、啖呵売、易者などを経て作家・翻訳家に。往時の新宿ゴールデン街の主役の一人。
・佐藤忠男(1930〜2022) 評論家。日本映画大学名誉学長。
・筑紫哲也(1935〜2008) ジャーナリスト、テレビキャスター。「web望星」の前身・月刊「望星」を応援してくれたいい人。
・立川談志(1936〜2011) 落語立川流家元。参議院議員にもなった。
(つづく)
タイトル文字・写真・イラスト=筆者
おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。


