1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。
♪地下鉄にのって
小さな出版社にもぐりこみ、取材の初仕事として議員会館を訪れ、三名の議員秘書に話を聞いた。議員会館入口から、少し階段を上ったところに受付があり、用紙に取材先や媒体名、連絡先などを書き込む。この時点で早ドキドキであった。写真が必須の雑誌だったので、カメラマンが同行しているはずだが、覚えていない。余裕がなかったのである。
三名の議員秘書の親分(とは言わないか)は、小泉純一郎、原健三郎、そしてもう一人誰だったか。小泉さんの秘書の飯島勲さんがとくに印象に残っているのは、のち小泉内閣誕生の折に名参謀として、よくマスコミに取り上げられたからだ。「あの飯島さんだ」とそのつど思い出していた。私は新聞の政治面の見出しと社説ぐらいは読んでいたが、無知に等しいノンポリだった。話してすぐ、飯島さんはそのことに気づいたと思う。
議員秘書という仕事は、議員のスケジュール管理をはじめ、さまざまな陳情の受け付け、ときに代理として会合にも顔を出すなど手を抜けない。敏腕しかこなせない役職で、飯島さんはその中でもスペシャリストという印象を持った。つまり人事にこなれまくっているわけで、突然飛び込んだ私のようなムクドリにも優しく親切に接し、議員秘書という仕事の中身、小泉純一郎議員への信頼などを語ってくださった。
それに対し私は、テープを回し、固有名詞や数字をメモに取り、ただ「はあ、はあ、なるほど」と相槌を打つだけであった。今、思い出しても冷や汗が出る。原健三郎さんは、議員というより、小林旭の「渡り鳥シリーズ」原作者として知っていた。秘書の方は、飯島氏よりかなり年輩に見えたが、こちらはいたってソフトな対応であった。取材が終わってから、「岡崎さん、これどうぞ」と紙封筒を渡された。もしや、お車代? と廊下で開けたらビール券が五枚ほど入っていた(これ、書いて大丈夫でしょうか?)。
記事の掲載誌が手元にないため、印象を書くに過ぎないが、私にとってはとにかく大仕事を終えたのである。帰り道、足元がふわふわしていた。それほど緊張を強いられたのだった。
ところで、勤め先最寄りの曙橋駅(都営新宿線)から国会議事堂前駅(丸ノ内線)へは、両線が連絡する新宿三丁目駅で乗り換えれば済む。これが最短のはず。ところが、このとき、この裏技(というほどでもないが)を知らず、東京の地下鉄路線図とにらめっこをして、都営新宿線の市ヶ谷駅に向かい、有楽町線に乗り換え、永田町駅で降り、赤坂見附駅までけっこうな距離を歩き、丸ノ内線に乗り国会議事堂前へというルートをたどったと思う。ずいぶん遠く感じた。
東京人になるということは、東京の地下鉄を含む鉄道路線をうまく乗りこなすことであったが、初年兵だった私は、とにかくパズルを解くように、ああ行ってこう行ってと律儀にルートを見つけていったのだ。今ならネット検索で一発だ。
階段を上り下りし、長い通路を歩いて乗り換えをするしかないと思っていたが、某日、国会図書館へ行ったときだったか、気づいた。地上へ出たら、永田町駅、国会議事堂前駅はすぐ近くで、赤坂見附駅も近いと知ったのである。なあんだ、と拍子抜けしたが、これが東京暮らしの洗礼だった。
いま手元にある『十人十色』は四冊。全部取っておいてあると思ったが見当たらず、三冊はネットで注文し入手した。そのうち、私がかかわった号で一番古いのが1990年11月号(通巻7巻)。「中東特集」で表紙はサダム・フセイン。この表紙をよく覚えているのは、イラストを担当した今井寛さんの仕事場を訪ねているからだ。
創刊号のマリリン・モンローは写真だったが、著名人を表紙に使う場合、多く今井さんのイラストが採用された。おそらくだが、権利関係の問題と、写真の使用料が高くついたからではないか。
このサダム・フセインのイラストを編集長が気に入らず、手直ししてもらって来いと命じられた。台紙とグラシン紙で保護され、大きな封筒に入った原画を抱えて、井の頭線の池ノ上駅へ。「しめた!」と思ったのは、駅近くに「由縁堂[ゆかりどう]書店」という古本屋があることを知っていたからだ。住所は世田谷区代沢2丁目。落語や演芸の本が揃ういい店だった。

雑誌社の仕事は、四六時中編集部にいる必要はない。出先の用事は、それが済めば自由時間を持つことは許されたのだ。タイムレコーダーという管理もなかったように思う。イラストの手直しはすぐに済み、原画を抱えて由縁堂へ行った。真山恵介『寄席がき話』をここで買った。1000円ぐらいだったか。それほど珍しいというわけではないが、少なくとも大阪では見たことがない演芸本だ。真山は新宿・末廣亭初代席亭の北村銀太郎の娘婿にあたり、演芸プロデューサー・評論家として活躍した。
この本が後でものを言う。二代目席亭の杉田恭子(北村銀太郎の娘・真山恵介夫人)に取材を申し込んだ際、「聞いたことがない雑誌(よくそう言われた)」と渋られたが、「じつは真山恵介さんの『寄席がき話』を持っていまして」と言うと態度が変わり、「夫の本をお持ちなら(真山はすでに亡くなっていた)」と許諾されたのだった。
レイアウトや校正、入稿などの編集のまねごとは、関西時代の同人誌『ブラケット』で経験していたが、本式は初めて。『十人十色』は少ない人数でやりくりしていたから、とにかくすべての編集作業をこなす。企画、アポ取り、取材、原稿執筆、レイアウト、校正と、川上から川下まで体験した。これが後々、フリーライターになってから役立ってくる。単に指定された字数を埋めるだけではなく、これが誌面になったとき、どういう仕上がりになるのか、小見出しはどのあたりで入るのかを考えながら原稿を書くくせがついた。立体的に文章を書く、と少しかっこつけて言えばそういうことだ。
サダム・フセイン表紙号をあらためて見直すと、あちこちで私がやたらにイラストを描いている。シリーズ企画「あなたの街の金持ちマップ」(千代田区編)は、高額納税者の名と住居を地図で示すページだが、そのイラスト地図を担当している。
週刊誌の中吊り広告の見出しから、話題の人を紹介するコーナーでも溝口敦、旭富士、江川卓、オノ・ヨーコ、工藤静香など著名人の似顔絵を描き、文章も私が書いた。
奥付の編集後記などでも、とにかく空いたスペースをイラストで埋めるため、独楽ネズミのように働いたのだった。このイラストの量だけでも給料をもらってもおかしくない、と今は思う。 ちなみに初任給は税込みで十七万円。ボーナスなし。1990年の大卒初任給とほぼ同じ。三十三歳にとってはきびしい額だった。

サダム・フセイン表紙号では大きな失敗をやらかした。サハラ砂漠を自転車で走破した上智大学探検部の学生三人を取材・執筆し、記事にしたのだが、メインである隊員の顔写真を間違えてしまった。なぜ最終チェックをちゃんとしなかったのか!?
こうした失敗はいくら注意しても、どこかしらで水が漏れるように起きてしまう──と、言い訳もだんだんうまくなっていく。

現在、13路線。東京地下鉄株式会社(東京メトロ)が9路線、東京都交通局(都営地下鉄)が4路線。合わせて280以上の駅がある。全部言えたらすごい。路線網は隣接する埼玉、千葉、神奈川3県に及ぶ。岡崎さんがせっせとイラストを描いていたころ開業したのが東京メトロ南北線(1991年)。都営大江戸線の一部も同じ年に開業。
(つづく)
タイトル文字・写真・イラスト=筆者
おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。


