1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。
雑誌の最終工程を経験
この連載、けっこう読まれているらしく、ある知人から「読んでますよ。だけど、なかなか前に進みませんね」と言われてしまった。出し惜しみをしているわけではないが、書いているうちにあれこれ思い出されて、門前でうろうろしている感じだ。狭き門より入れ!
前回、ようやくメディアハウスという雑誌社に就職が決まるところまで書いた。1990年6月のことで、上京してから三ヵ月近くが過ぎていた。最初に面接を受けた会社でいきなり採用されたのだから、運があったのだろう。とにかく当時住んでいた埼玉県戸田市の戸田公園駅から新宿区の曙橋駅まで出勤することになった。自宅から社まで一時間くらいか。新宿駅はこの時まだ自動改札になっておらず、関西私鉄は早くに導入されていたから、その点では遅れているなあ、と思った(東京への関西人の対抗意識まだ強し)。

曙橋交差点の角地、防衛庁(当時)の広大な施設を背に立つマンション「ヴェラハイツ市ヶ谷」の四階に編集部があった。
最初の仕事は、中央精版という印刷所での出張校正。出張校正とは、私もその時初めて知ったのだが、雑誌の最終校了の手前、印刷会社へ出向いて誌面の最終チェックをすることである。中央精版印刷は大正期に製本業でスタートした老舗の大手で、コミック印刷に力を入れ、たとえば天文学的ヒットとなったマンガ『ワンピース』の印刷は、同社が導入した高速印刷機のたまものであった。単行本、雑誌も多く手掛け、意識して奥付を見ると、中央精版が送り出した出版物がいかに多いかがわかる。
驚いたことに、出張校正の場である中央精版本社は戸田市美女木[びじょぎ]にあった。私の住まいと同じ市で、駅でいえば二つ先の北戸田。駅からは五分ほど。当時の社長は草刈龍平。「社長の娘が、あのバレリーナの草刈民代なの」と副編集長のМさんから教えられた。社長室にいた秘書役の女性は草刈民代の妹だという(現在は、この明代さんが社長)。この社長がおっかなく、いつも社長室で社員を叱責していた……なんて話はちょっと触れておくだけにしよう。
最初は場所が分からないので、曙橋の編集部から何人か連れ立って北戸田まで行ったと思うが、のち自宅からの方が当然近いのでスクーターで通うようになる。出張校正の日には社内の一室が与えられ、ほとんど丸一日(ときに明け方まで)作業することに。校了日が同じだったのか、たいてい隣りは早川書房の『ミステリマガジン』の編集部が詰めていた。
すべての誌面のゲラが同じ条件で揃っていることはなく、初校、再校(ときに三校)、最終校と入り乱れてこなしていくことになる。私は、関西時代に同人誌の編集に携わり、ごく初歩の校正技術は身につけていた。しかしこれは、原稿の突き合わせと誤植のチェック程度で、本来の正式な校正にはほど遠い。まあ、見ないよりはまし、という程度であった。
編集長S氏はカメラマンでもあったので、カラーグラビアの色についてはことのほか厳しく印刷具合をチェックした。念校はその名の通り「念のため」出す最終ゲラだったが、S氏は色具合について、「もう少しマゼンタ(赤)を強く」など指定を書き込む。印刷所の担当者は相当年輩で、考えたら活版印刷の時代からたたき上げた人のようであったが、「まったくもう」と愚痴を言いながら、直しにかかっていた。私が最初に知る修羅場であった。
発行日から考えると、これは『十人十色』の八月号(通巻4号)だろう。表紙はジョン・F・ケネディ。だから、この号には関わっていない。それでも、本格的に雑誌ができあがる最終工程を体験することになった。
夜更けの国道でタクローを唄う
とにかく待ち時間が多く、次のゲラが出てくる間、中央精版の印刷物の見本が並ぶ本棚からマンガを引っ張り出してよく読んでいた。ほとんど言葉を交わすのは初めての編集部の面々と何を話したかよく覚えていない。とにかく校了を日付変わって深夜二時とか三時に終え、「おまえは近いから歩いて帰れ」と編集長に言われ、命令に従った。長距離トラックが疾走する国道17号線を、吉田拓郎の『人間なんて』を唄いながら、家を目指して歩いた。四キロくらいだったろうか。
少し前の三月まで大阪にいた。それが今では、関東のまったく初めての町を深夜歩いている。人間の運命なんてまったくわからないものだ。
六月後半から、すでに次号(九月号)の準備は始まっていた。いよいよ編集者として私も始動するわけだ。最初は半月から一ヵ月ぐらいは見習いで、誰かにくっついて取材現場へ行き、仕事を学ぶのだと軽く考えていた。しかしそれは甘かったのである。いきなり単独で取材ページを担当することになった。「ええ、そんな!」と立ちすくんだ。
しかも、取材内容は「議員秘書の仕事」について、であった。いまその号が手元になく、はっきりしたことは言えないが、私の担当は三人。小泉純一郎、原健三郎の議員秘書で、もう一人が誰だったか。いくら私でもこの二人の名前は知っていたが、国会議員の仕事などは片手の手のひらに軽く乗るぐらいの認識しかない。インタビューのやり方なども教わっていない。 まったくもって困ってしまった。
取材当日、ドキドキしながら永田町駅から地上へ。すぐに国会議事堂が見えてきた。じつはこの建物の実物を拝むのも初めて。「へえ、これが国会議事堂か」てなもんである。地方から陳情に来た田舎の青年よろしく、きょろきょろしながら議員会館を目指す。国会図書館、最高裁判所など国家の中枢となる建物が集まっている。持参した東京の都市地図を眺めているうちに威圧と緊張が高まってくる。
さあ、どうしたものか。でも行くしかないのだった。


高安(大相撲力士)、遠藤(大相撲力士=引退)、黒木華(女優)、豊島将之(将棋棋士)、深谷知広(競輪選手)、阿部拓真(競輪選手)
追記
1990年7月の名古屋場所は横綱旭富士が優勝、またこの年の暮、希代の名馬オグリキャップが有馬記念を勝って引退した。
(つづく)
タイトル文字・写真・イラスト=筆者
おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。


