【連載】僕らは水の中で生きている◎橋本淳司——第12回/水でダイヤモンドが切れる理由

第12回 水でダイヤモンドが切れる理由

 水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。

 ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。

・アルバイト三昧の経済学部生・[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・[ゆう]

 彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?

渓谷からの写真投稿

「もう行こうよ。来ないって」 

 湊は三度目のため息をついた。 

「来るわよ」 

 千夏は自信満々に言う。 

「1時間だけ付き合ってくれるって約束したじゃないの」 
「だから、その1時間待っても来る保証はないんだって」 

 期末試験を終えた4人は、久しぶりの休日を利用してとある渓谷を訪れていた。目の前では、高さ30メートルほどの滝が白いしぶきを上げながら流れ落ちている。谷を吹き抜ける風はひやりと心地よく、水音があたり一面に響いている。 

「絶対にここでBeReal(※)を撮るの!」 
※BeReal…リアルな日常をシェアするアプリのこと。1日1回、ランダムな時間に届く通知から2分以内に、撮影した画像を投稿する。 

 千夏は滝を指さした。 

「この景色、最高じゃない!」 

 湧が苦笑する。 

「BeRealって、通知が来る時間は毎日バラバラなんだよ」 
「知ってる」 
「じゃあ、いつ来るか分からない」 
「だから待つの」 
「論理がおかしい」 

 湊が肩をすくめると、詩音がくすっと笑った。 

「せっかく来たんですから、少しくらい待ってもいいんじゃないですか」 
「詩音まで味方するのか」 

 湧が腕時計を見た。 

「工房の予約は午後2時だから時間はある」 
「ほら!」 

 千夏は勝ち誇ったようにガッツポーズをした。 

「絶対にそろそろ来る気がする!」 

 4人は滝を眺めたり、遊歩道を歩いたり、売店でソフトクリームを食べたりしながら思い思いに過ごした。湧は工房に電話をし、詩音は滝の案内板を熱心に読んでいる。千夏は、何度もスマートフォンの画面をのぞき込んでいた。やがて湊が腕時計を見た。 

「1時間経ったよ」 
「じゃあ、残念だけど行こうか」 

 湧がリュックを背負った、その瞬間だった。 

〝ピコン〟 

 ほぼ同時に2つの通知音が鳴った。千夏と詩音が同時にスマートフォンを取り出す。 

「来たーーーー!」 

 千夏が飛び上がる。 

「えっ、詩音もBeRealやってるの?」 

 湊が目を丸くする。 

「はい」 

 詩音は少し照れくさそうに笑った。 

「友達に誘われて始めました」 
「意外」 
「無駄話をしてる場合じゃないよ!」 

 千夏が2人の間に割って入る。 

「2分しかないんだから!」 

 4人は滝を背に集まり、思い思いのポーズをとる。 

「湊、もっと笑って!」 
「歩き回って疲れたって」 

〝カシャッ〟。撮影が終わると4人は画面をのぞき込み、思わず笑った。そこには笑顔の4人と白いしぶきを上げる滝が映っていた。 

「私、持ってるでしょ」 

 千夏が得意げに胸を張る。 

「確かに」 

 湊は笑いながらうなずいた。 

「せっかくだし、滝つぼまで降りてみよう」 

滝の水が削った岩

 4人はゆっくりと滝つぼへ続く道を下りていく。近づくにつれ、水音はますます大きくなった。白い水しぶきが風に乗って舞い上がり、頬に冷たいしずくが当たる。 

「マイナスイオン、いただきまーす!」 

 千夏は両手を広げた。 

「天然のクーラーだね」 
「夏は最高だな」 

 湊も思わず笑う。滝のすぐ近くまで来ると、湊は足元に目を落とした。 

「あれ?」 

 岩肌が妙に滑らかだった。角ばったところがほとんどなく、まるで誰かが巨大なヤスリで丹念に磨いたように丸みを帯びている。湊はそっと手で触れた。 

「岩なのに、こんなにつるつるなのか」 

 千夏も岩に手のひらを当てる。 

「ほんとだ。ゆで卵みたいに丸い」 

 詩音は静かに微笑んだ。 

「水が削ったんです」 
「え?」 

 湊は思わず聞き返した。 

「これ全部?」 

 詩音は滝の周りの岩肌へ目を向ける。 

「はい。この岩も、この谷も。何万年も流れ続けた水が、少しずつ形を変えてきたんです」 

 湧も岩肌を見つめながらうなずく。 

「水は急ぎません。でも、止まりもしません」 

 4人はしばらく滝を見上げた。絶え間なく落ち続ける水。一滴一滴は柔らかい。けれど、その積み重ねが岩を削り、谷をつくってきた。湊はぽつりと言った。 

「水って……思ってたより力持ちなんだな」 

 そのときだった。 

「その水、今では石だけじゃなくて、もっと硬いものまで切れるんですよ」 

 後ろから声が聞こえた。振り向くと、作業着姿の男性が立っていた。 

「こんにちは」 

 湧が頭を下げる。 

「先生に紹介していただいた工房の方ですよね」 

 男性は笑顔でうなずいた。 

「お迎えに来ました。工房までは、ここから車で10分ほどです」 

水で厚い石を切る

 工房の扉を開けると、ゴォォォという低いうなり音が響いていた。大きな加工機の中央に、黒い石板が固定されている。 

「今日は、この石を切ります」 

 職人が操作盤の前に立った。湊は石板をしげしげと眺めた。 

「こんな厚い石を切るなんて、どんな刃物なんですか?」 
「いえ、刃物は使いません」 

 職人は細いノズルを指さした。 

「水です。ウォータージェットといいます」 

 千夏が思わず笑う。 

「またまた」 
「本当ですよ」 

 職人がスイッチを押すと、キーンという高音とともに、細い水が勢いよく噴き出した。次の瞬間、黒い石の表面に白い線が現れる。ゆっくりと、しかし迷いなく、石が切り分けられていく。湊は言葉を失った。 

 数十秒後、厚さ数センチの石は、きれいに2つに分かれていた。職人は切断面を4人に見せる。鏡のようになめらかだった。 

「触ってみますか」 

 湊が恐る恐る指を当てる。 

「つるつるだ」 
「しかも冷たい」 

 湧もうなずいた。 

「普通の刃物なら熱が出るのに」 
「だから宝石や精密部品にも使われるんです」 

 職人が答えた。ショーケースには、美しく加工された水晶や瑪瑙が並んでいた。 

「これも全部、水で?」 
「はい。水に小さな砂を混ぜることで、さらに硬い石も切れるんです。ダイヤモンドも条件によっては加工できます」 
「ダイヤモンドも?」 

 千夏が思わず大きな声を出した。 

「水って、一番柔らかいものじゃないの?」 

 湊が信じられないという顔をすると、職人は笑った。 

「高い圧力で加速した水を細いノズルから噴き出すことで、ものすごい速さになり、石を削れるようになるんです」 

水は強くなったわけじゃない

「でも、まだ分からないな」 

 湊が首をかしげた。 

「水って、押したら柔らかいじゃん」 

 職人は近くにあったホースを持ち上げた。 

「ちょっと触ってみますか」 

 蛇口をひねる。水が勢いよく流れ出した。湊は手をかざした。 

「痛くはないでしょう?」 
「うん」 

 職人はホースの先を親指で少しふさいだ。すると、水は細く勢いよく飛び出した。 

「おっ」 

 さっきよりずっと強い。 

「水は変わっていません。変わったのは、水の出口です」 

 湧がうなずいた。 

「同じ量の水でも、細いところを通ると速くなる」 
「そう」 

 職人はノズルを取り外して見せた。

「水が出る穴を見てください」

 4人は顔を近づける。

「小さすぎて見えないよー」

 千夏が目を細める。

「だから水の力が一点に集まるんです」 

 湊はゆっくりとうなずいた。 

「水を強くしたわけじゃないんだ」 
「そう」 

 職人が笑った。 

「もともと水が持っている力を、逃がさないようにしているだけです」 

 詩音が静かにつぶやいた。 

「滝も同じですね」 

 全員が振り向く。 

「何万年も流れ続けるから岩が削れる。ウォータージェットは、その何万年という時間を一瞬に集めている」 

 職人は少し驚いたような顔をした。 

「まさにその通りです」 

 工房の窓から、さっき歩いた渓谷が見えた。湊は滝を思い浮かべる。あの白い流れは、何万年もかけて谷を刻んできた。ここでは、その何万年という時間が、ほんの数秒に凝縮されているようだった。 

柔らかいものの力 

 帰り道、4人はもう一度滝の前に立った。白い水は、朝と変わらず絶え間なく流れ落ちている。湊がぽつりと言った。 

「今日、一番驚いたのはさ」 
「ダイヤモンドが水で加工できるって知ったこと?」 

 千夏が聞く。 

「いや」 

 湊は首を振った。 

「滝も、ウォータージェットも同じ水だったこと」 

 水音だけが谷に響いている。やがて詩音が静かに口を開いた。 

「中国に、こんな言葉があります」 

 3人が振り向く。 

「天下の至柔[しじゅう]は、天下の至堅[しけん]を馳騁[ちてい]す」 
「どういう意味?」 

 千夏が尋ねた。 

「天下で最も柔らかいものは、天下で最も堅いものを打ち破る、という意味です。二千年以上前の思想家、老子の言葉です」 

 湧は滝を見つめた。 

「ウォータージェットみたいだ」 

 詩音は首を横に振る。 

「逆です」 
「え?」 
「ウォータージェットが老子みたいなんです」 

3人は一瞬きょとんとした。詩音は滝へ視線を向ける。 

「老子は機械なんて知りませんでした。でも、水は一滴では弱くても、流れ続ければ岩を削ることを知っていたんです」 
「だから、水の中に『柔らかさの強さ』を見つけた」 

 湊は今日見た光景を思い浮かべた。何万年もかけて谷を刻んだ滝。一瞬で石を切り分けた細い水の刃。どちらも、同じ水だった。人間が、その力をどう引き出したのかの違いだった。 

 水は今日も流れ続ける。柔らかいままで。それでも岩を削り、谷をつくり、時にはダイヤモンドさえ切る。ぼくらは、そんな不思議な水のなかで生きている。

イラスト=ヒットペン

橋本淳司

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。

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