第13回 どうして火に水をかけると消えるのか?
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
育てすぎた火
「湊、それ私の肉!」
千夏の声が川に響いた。
「え? 誰のって決まってるの?」
「さっきから育ててたの。ちょうどいい焼き加減になるまで」
「肉は育てるって言わない」
詩音がお茶を飲みながら言った。
「焼く、でしょ」
「いや、これは育てるで合ってる」
トングを握った湊が真顔で言う。
「弱火の場所でじっくり――」
「だから、それ私の肉!」

千夏が横から箸を出す。鉄板の上では、湧が黙々と焼きそばをかき混ぜていた。
「湧はいいよね。平和で」
「俺は最初から自分の食料は自分で管理してる」
「バーベキューでその言い方する?」
詩音が笑った。
夏休みも終盤。4人は大学から少し離れた清流にやってきた。肉を焼き、野菜を焦がし、焼きそばを作りすぎ、最後に残ったマシュマロまで焼いた。
「見て見て」
千夏が串の先を掲げる。マシュマロの表面がきつね色に膨らむ。
「完璧」
次の瞬間、ぼおっと炎が上がった。
「あっ!」
千夏が息を吹きかけると、炎が消えた。
「危なかった~」
「今のは育てすぎ!」
湊が言った。
「うるさい」
水はどうやって火を消す?
気がつけば、川面にきらきら跳ねていた陽の光が、いつの間にかオレンジ色に変わっていた。4人の影も、ずいぶん長くなっている。
「そろそろ片づけよう」
詩音のひと言で、ようやく4人は腰を上げた。紙皿を集め、ゴミを袋に入れ、テーブルを拭く。湊はバーベキューコンロをのぞき込んだ。
「まだ赤いな」
炭の隙間が、夕暮れの中で赤く光っている。
「じゃあ、ちゃんと火を消さないとね」
千夏が水筒を持ってきた。
「これ、かければいい?」
「ちょっと待っ……」
〝ジュウウッ!〟
湧が止めるより早く、大量の水が炭に落ちた。白い湯気が勢いよく立ち上がる。
「熱っ!」
びっくりして千夏が飛びのいた。
「だから待てって言ったのに」
「だって、火を消そうと思って」
「少しずつやれよ」
詩音は白い湯気の向こうをのぞき込んでいた。
「ねえ」
「なに?」
「さっきまで赤かったところ、黒くなってる」
「水かけたんだから、そりゃ消えるだろ」
湊が言った。
「どうして?」
「どうしてって……」
湊は首を傾げた。
「水だから」
「それ、説明になってない」
「じゃあ詩音はわかるのかよ」
「わからないから聞いてるの」
3人の視線が湧に集まった。
「俺を見るな。まず考えろ」
「水をかけると、火が水に覆われて、酸素が届かなくなる」
湊が答えると、千夏がコンロを指さした。
「でも今、炭は水の中に沈んでないよ」
「じゃあ、水が冷たいから?」
「この水、けっこうぬるいよ」
詩音が水筒を振ってみせる。
「じゃあ、なんで?」
湧が炭を指した。
「水をかける前と、あとで何が変わった?」
詩音が赤い炭を見つめながら考えている。
「温度?」
「あっ」
千夏が声を上げた。
「水が熱を取った?」
「そう」
湧がうなずいた。
「火が燃え続けるには、燃えるものと酸素だけじゃなくて、熱も必要なんだ。水をかけると、炭の熱を水が受け取る」
「でも、それなら水じゃなくてもいいんじゃない?」
湊が言った。
「冷たいものなら何でも。珍しく、いいところに気づいたな」
「珍しく? 余計なひと言はいらない」
湧が笑った。
「水は、同じだけ温度を上げるのに、ほかの多くの物質よりたくさんの熱が必要なんだ」
「じゃあ、熱を受け取るのが得意ってこと?」
千夏が聞く。
「そういうこと。それに、液体の水が水蒸気になるときには、さらにたくさんの熱が必要になる」
千夏が、まだ立ち上っている白いものを指さした。
「じゃあ、これが水蒸気?」
「白く見えてるのは、水蒸気そのものじゃないよ」
湧が言った。
「水蒸気は目に見えない。これは、水蒸気が冷えて小さな水滴になったもの」
「ややこしいなあ、水」
「水に文句言うなよ」
湊が笑った。千夏は水筒のフタをあけてのぞき込む。
「つまり、水は火に勝ってるというより……。火から熱を引き受けてるんだ」
「いい表現だな。それ、いただき! 今度、使おう」
湊が言った。
「どこで?」
「わからない」
4人は笑った。
森の中にある水
湊はコンロに残った赤い炭を眺めた。
「だったらさ」
「今度はなに?」
「山火事にも、とにかく水をいっぱいかければいいんじゃない?」
「いっぱいって?」
「消防車100台ぶんとか?」
「絶対足りないでしょ」
千夏がスマートフォンを取り出した。
「この夏、ヨーロッパでも大きな山火事が相次いでるよ」
「そうそう、私もニュースで見た」
詩音が言った。
「高温とか乾燥とか、強い風が重なると、火が広がりやすくなるみたい」
「それなら、雨が降ればいいんじゃない?」
湊が言った。詩音は足元に落ちていた枯れ葉を数枚拾った。指で曲げると、乾いた音がした。

「この葉っぱが濡れてたら、今より燃えにくいよね」
「そりゃそうだろ」
湊が答えた。言ってから、何かに気づいた顔をした。
「……あれ?」
千夏が笑う。
「気づいた?」
「さっきと同じか」
「何が?」
「葉っぱの中に水があったら、火の熱はその水にも取られる」
湧がうなずいた。
「水分があれば、熱の一部は水を温めたり、蒸発させたりするために使われるからね」
「でも、暑くて乾燥した日が続いて、葉っぱや枝から水分が失われたら……」
千夏が言う。
「燃えやすくなる」
今度は湊が答えた。詩音は手の中の枯れ葉を見つめている。
「水って、火事になってからだけ働いてるんじゃないんだね」
少し強い風が吹いた。詩音が持っていた枯れ葉の一枚が、手を離れた。
「あっ」
枯れ葉は地面をすべるように運ばれていった。
「風も怖いな」
湊が言った。
「乾いたものがたくさんあって、そこに強い風が吹いたら……」
「火がついたとき、一気に広がることがある」
湧が続けた。
「でもさ」
湊が言った。
「やっぱり雨がたくさん降れば、乾かなくて済むんじゃないの?」
「それが、そんなに単純でもないみたい」
千夏がスマートフォンを見ながら言った。
「冬から春に雨が多いと、草とか植物がよく育つことがあるでしょ。それが夏の猛暑で一気に乾燥したら?」
湊が「あっ!」と声を上げる。
「燃えるものが増える」
「そういうこともあるんだって」
詩音は枯れ葉を裏返した。
「水が多ければいい、少なければ悪い、っていう話でもないんだね」
「山火事は、火がつく原因もいろいろだからね」
湧が言った。
「たき火や火の不始末から燃え広がることもあれば雷もある。森林の管理も関係する。でも、暑さや乾燥で植物の水分が減って、そこに強い風が重なると、火は広がりやすくなる」
「気候変動で、そういう条件が起きやすくなっている地域もあるんだよね」
千夏が言った。川原を、また風が通り抜けていく。さっきまでは心地よい風だった。けれど今は、乾いた森の中を火の粉が飛んでいく様子を想像してしまう。
「なんか変な感じ」
千夏が言った。
「何が?」
「山火事って、ずっと火の問題だと思ってた」
詩音は手の中の枯れ葉を見つめている。
「水の問題でもあるんだね」
湊が水筒の水を炭に少しずつかけた。〝ジュッ〟また白い湯気が立ち上がった。今度は誰も飛びのかなかった。
「水ってすごいな」
湊が言った。
「火を消せるから?」
千夏が聞く。
「いや」
湊は首を振った。
「火事になってから水を持ってくることばっかり考えてた。でも、森の中に水があること自体が大事なんだな」
「火から熱を引き受けてくれるからね」
千夏が言った。
ひとしずくの水
詩音は、しばらく消えかけた炭を見つめていた。
「ハチドリのひとしずくっていう話、知ってる?」
「ハチドリ?」
「南米の話。森が大火事になって、動物たちはみんな逃げていくの。でも、一羽の小さなハチドリだけが、水場と森の間を何度も往復するんだって」
詩音は指先で、小さなくちばしの形を作った。
「そこに、ほんのひとしずくの水を入れて」
「それで山火事を消すの?」
千夏が聞いた。
「ほかの動物たちも言うの。そんな小さなひとしずくで、何ができるんだって」
「まあ、そう思うよな」
湊がつぶやいた。
「それでもハチドリは、水を運ぶのをやめない」
詩音は、炭の上に残るわずかな赤い光を見た。
「自分にできることをしているんだ、って答えるの」
誰もすぐには何も言わなかった。湊は手にしている水筒を見た。
「ひとしずく、か」

水筒を傾ける。ぽたり。一滴の水が、まだかすかに赤い炭へ落ちた。〝ジュッ〟っと、小さな音がした。4人は、その音を聞いていた。
川原には、さっきまでの炭火の熱がまだ少し残っていた。その上に浮かんだ最後の白い湯気が、夕暮れの空へゆっくり溶けていった。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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