第11回 シャボン玉は雨が好き⁉
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
巨大シャボン玉開発プロジェクト
6月のある日。梅雨空の下、総合大学のキャンパスはしっとりと濡れていた。講義を終えた湊がサス研の部室へ向かうと、扉の向こうから千夏の声が聞こえてくる。
「だから絶対に巨大シャボン玉なの!」
嫌な予感しかしない……。扉を開けると、案の定、千夏がホワイトボードの前で熱弁をふるっていた。
「あっ! 湊。来月の地域交流イベントで子ども向け体験コーナーをやることになったの!」
「それは聞いた」
「そこで巨大シャボン玉を飛ばします!」
「なんで?」
「すごいから!」
湊はため息をついた。
「説明になってないよ」
「子どもたちは絶対に喜ぶ!」
「それはそうだな」

湧がノートパソコンを見ながら言った。
「調べたら、巨大シャボン玉でギネス記録を狙ってる人たちがいるらしい」
「へえ」
「世界最長とか世界最大とか」
「そんなの競うものなの?」
「人類はだいたい何でも競う」
「確かに」
「巨大シャボン玉も例外じゃなかった」
「人類って暇なんだな」
「いや、その情熱が文明を発展させるんだと思う」
「絶対違うだろ」
そう言いながらも、湊は少し感心した。
「だったら、うちも研究しないとね」
千夏が言った。
「研究?」
「そう、巨大シャボン玉開発プロジェクト!」
「名前だけは立派だな」
シャボン玉のレシピ
翌日、4人は大学の芝生広場で実験を始めた。食器用洗剤、洗濯のり、グリセリン、砂糖。ネットで見つけたレシピを参考にしながら、少しずつ配合を変えていく。
「洗濯のりは膜を強くする」
「グリセリンや砂糖は乾燥しにくくする」
湧が説明する。
「つまりチームプレーなんだな」
湊が言った。
「そんな感じ」

大きなトレーにシャボン液を入れて、針金を曲げて作った直径30センチほどの輪を沈める。 最初に挑戦したのは千夏だった。
「いくよ!」
勢いよく持ち上げる。膜が張ったと思った瞬間。パチン。あっけなく割れてしまった。
「ええっ!?」
「早すぎる」
湧が言う。
「シャボン玉は走らない」
「そんな格言あるの?」
「今作った」
次は湧。慎重に輪を持ち上げる。きれいな膜が張る。しかし動かない。じっと風を待っている。
「何してるの?」
「最適な風速を待っている」
その瞬間。パチン。膜が消えた。
「あ!」
「考えすぎて寿命が来たな」
湊が笑った。
「貸してみろよ」
湊は輪をトレーに沈めた。そっと持ち上げる。輪の内側に透明な膜が張った。薄いけれど確かにそこに存在していた。雲の切れ間から差し込んだ光が膜を照らす。紫、青、緑、虹色の帯がゆっくり流れていく。
「きれい……」
詩音がつぶやいた。
湊はゆっくり歩き始めた。輪の部分に風が当たる。平らだった膜が少し前へ押し出される。そして生き物のようにふくらみ始めた。ゆっくり。本当にゆっくり。透明な風船が育っていく。
表面では虹色の光が絶えず形を変えていた。赤が伸びる。青が消える。金色の光が揺れる。まるで液体のオーロラだった。
「おお……」
みんな、息をのむ。直径1メートルほどになったところで、シャボン玉は静かに輪から離れた。ふわりと空へ浮かび上がる。
「できた!」
千夏が飛び上がった。シャボン玉は形を維持したまま、校舎の屋根を越えていった。

同じ配合なのにうまくいかない原因は?
ところが本番前日、異変が起きた。同じ配合で作ったはずなのに、うまくいかない。
「なんで?」
千夏が首をかしげる。
「先週はもっと大きかったよね?」
湊も考え込んでいる。そのとき詩音が言った。
「先週は雨水を使っていましたよね」
「ああ、そうか」
湊もうなずく。工学部棟の裏にある雨水タンク。屋根に降った雨を集め、ろ過して植栽の水やりなどに利用している設備だ。巨大シャボン玉の話になったとき、せっかくだから雨水でも試してみようという話になったのだった。
「でも、本当に水の違いなのかな」
湊が言う。
「風とか湿度の影響かもしれない」
「だったら調べればいい」
湧が立ち上がった。
「条件をそろえて比較しよう」
4人は3種類の水を用意した。雨水タンクの水、水道水、硬水のミネラルウォーター。食器用洗剤、洗濯のり、グリセリン、砂糖の配合は同じ。違うのは水だけ。
実験を何度も繰り返した。風向きも湿度も結果に影響する。それでも傾向は見えてきた。雨水の方が、大きく長持ちするシャボン玉ができやすかった。
「なんでだろうな」
湊が言う。
「同じ透明な水なのに」
湧はノートに数字を書いた。
「ミネラルじゃない?」
「カルシウムとかマグネシウム?」
「そう」
湧はうなずいた。
「雨水にはほとんど入っていない。硬水にはたくさん入っている」
「それがシャボン玉に関係するのか?」
「多少は関係するらしい」
詩音が続けた。
「水は何でも溶かすのが得意なんです」
「何でも?」
「岩石の成分も。土の中のミネラルも。だから水によって性質が変わるの」
「見た目じゃ分からないのにな」
「そこが面白いところです」
湊はペットボトルの水を見つめた。透明だから何も入っていないように見える。けれど違う。目に見えないものが溶けている。そして、その違いがシャボン玉の大きさになって現れている。
「でもさ」
湊はふと思った。
「なんで雨にはミネラルが少ないんだ?」
詩音が空を見上げる。ちょうど梅雨の雲が流れていた。
「雨は海や川の水が蒸発してできるから」
「蒸発?」
「水だけが空へ上がるんだ」
湧が補足する。
「塩やミネラルは置いていかれる」
「じゃあ雨って……」
千夏が目を丸くする。
「空が作った蒸留水みたいなもの?」
「かなり近いですね」
詩音が笑った。
湊は空を見上げた。海から蒸発した水。雲になった水。雨になった水。大学の雨水タンクに集まった水。そして今、シャボン玉になって空へ戻ろうとしている水。全部つながっている。
オープンキャンパス当日。芝生広場にはたくさんの子どもたちが集まっていた。千夏が輪をシャボン液に沈める。ゆっくり持ち上げると虹色の膜が張り、風が吹くとその膜がふくらむ。透明な生き物のような巨大シャボン玉が空へ舞い上がった。
「すごーい!」
歓声が上がる。子どもたちが追いかける。何十個ものシャボン玉が青空へ昇っていく。湊はそれを見上げた。あの中にあるのも水だ。雲だった水。雨だった水。世界を旅してきた水。水はさまざまなものを溶かし、運び、つなげている。そして今日、雨は巨大なシャボン玉になって、もう一度空へ帰っていった。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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