第15回 水は何℃で沸騰する?
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
名料理人、星空の下に立つ
標高2000メートルに近い高原にある小さな山荘。サス研のメンバー4人は、1泊2日の星空観察旅行に来ていた。きっかけは、千夏がSNSで見つけた1枚の写真だった。山の稜線の上に星々が広がり、その中央に淡い光の染みのようなものが浮かんでいる。投稿には「肉眼でアンドロメダ銀河を探そう」と書かれていた。
「今夜は新月。しかも星空指数100なんだから!」
千夏がスマートフォンを高く掲げる。
「星空にも成績表があるんだ」
湊はせわしなく手を動かしながら答えた。
「月明かりがないから、暗い星まで見つけやすいのよ。秋の四辺形も、アンドロメダ銀河も見頃!」
ベランダでは、湧がカメラを三脚に取りつけている。
「日没まで、あと1時間12分。暗くなったらタイムラプス撮影を始める。途中で照明をつけないでよ」
「それまでに食べ終わらないとね」
詩音が窓の外を眺めた。空は薄い青から紫へ変わり始めている。

「アンドロメダ銀河の光は、ここへ届くまで250万年くらいかかるのよね」
「250万年も待ってたのに、カレーのせいで見逃したら申し訳ないな」
湊が言うと、湧はカメラから目を離さずに答えた。
「待っていたのは光のほうじゃない。ずっと進み続けて、今夜ここに届くんだ」
「急に壮大になった」
千夏が窓の外を見上げる。
「肉眼で見つけられるかな」
「空が暗ければ、ぼんやりした光が見えるかもしれない。でも、目が暗さに慣れるまで時間がかかる。スマートフォンの画面もなるべく見ないで」
「おっと、掲げている場合じゃないわね」
千夏は、そっとスマートフォンを下ろした。
「星もいいけど、晩ご飯を食べないと見る体力がもたないぞ」
湊はしゃもじをマイクのように握って声を張り上げた。
「今夜、君たちは2つの奇跡を目撃する。250万年前の光、そして俺の高原カレー」
「カレーは何年前に仕込んだの?」
詩音が心配そうに聞く。
「ついさっきだよ。むしろ星のほうが、俺のカレーに間に合うか緊張していると思う」
「奇跡はいいから、早くご飯にして」
千夏がテーブルをスプーンの柄でコンコンとたたく。
「行儀悪いぞ。待ち時間まで含めて料理だ」
「炊飯器のスイッチしか押したことない男が言うと、深みがないね」
湧はノートパソコンを見たまま言った。
「失礼な。今日は鍋炊きだぞ。水の量、火加減、蒸らし時間。すべて生成AIに確認した」
「自分で考えた部分はどこ?」
詩音が聞く。
「実行力」
湊は即答した。
「つまり、考えてはいないのね」
詩音は笑った。湊が鍋のふたを開けると、白い湯気が勢いよく立ち上る。
「見ろ。この輝き。完璧だ」
4人は炊きたてのご飯にカレーをかけた。千夏が最初に一口食べる。
〝ぱりっ、ぱりっ〟
「……いま、ご飯から出てはいけない音がした」
千夏のスプーンが止まる。
「スパイスがはじけたんだな」
「ご飯だけ食べたけど、はじけたよ」
詩音も一粒、慎重に嚙んだ。
「外側はご飯。でも中心は、まだ炊かれることに抵抗している」
「米にも意志があるんだな」
湊は感心したようにうなずいた。
「感心するところじゃない」
湧は無言で水を飲みながら湊を見つめている。
「おい。何か言えよ」
「生成AIへの報告文を考えていた」
「何て書くんだ?」
「レシピに問題なし。実行力に問題あり」
千夏がもう一度、ご飯を嚙んだ。
〝ぱりっ〟
「原因、もう分かったね」
「まだ調査中だよ」
沸騰しているなら100℃?
湊は納得しなかった。
「時間も水の量も、いつもどおりだ。火だって十分に強かった」
隣の鍋では、お茶用のお湯がふたを持ち上げそうな勢いで沸いている。
「ほら。あれだけ沸いてるんだぞ。水は100度。火力に問題なし」
湧が顔を上げた。
「そのお湯、100度じゃないと思う」
「は?」
「ここって、標高2000メートル近いから」
「山の水だけ特別扱いするのか。水はどこでも100度で沸騰する。理科の常識だろ」
「賭ける?」

千夏がすぐに割り込んだ。
「温度計が100度なら湧が皿洗い。違ったら湊が皿洗い」
「なんで千夏が条件を決めるんだよ」
湧は台所にあった料理用温度計を取り出した。鍋の縁や底に触れないよう、先端を湯へ入れる。数字が上がる。80、90、91、92……93℃で止まった。
「はい、湊の皿洗い決定」
千夏が拍手する。
「おい。7度くらい遠慮してないか?」
「温度計に奥ゆかしさを求めないで」
詩音が言った。湧は紙に鍋と水面を描いた。
「僕たちの周りにある空気には重さがあって、いつも水面を押している。標高が高くなると、頭上にある空気が少なくなって、押す力も弱くなる」
「空気が水を押してる?」
「水の分子は、液体の中でも動き続けているんだ。水は、温度が上がるほど水蒸気になりやすくなり、蒸気圧が高くなる。その蒸気圧が周囲の圧力と等しくなると、水の内部にできた水蒸気の泡がつぶれずに育つ。これが沸騰だよ」
千夏が外の暗い空を見た。
「山の上では空気が薄い。水を押さえつける力も弱い。だから、低い温度で泡になれるんだ」
「そう」
詩音は鍋から立つ湯気を見つめた。
「100度は、水だけが決めた数字ではないのね。周りの空気と相談して決めている」

湊は芯の残った米を見下ろした。お湯が沸いても温度は約93℃。いつもと同じ時間では、米の吸水やデンプンの糊化が十分に進まず、中心に芯が残ったのだ。
「つまり、俺は悪くない」
「結論がおかしい!」
「悪いのは気圧だ」
「気圧はレシピを読めないからね」
湧が言った。結局、4人は水を足して米を炊き直した。
「撮影開始まで、あと7分」
湧が告げる。
「湊、急いで!」
「皿を洗いながら星を見る方法はないのか!」
4人は食器を流し台へ運び、照明を消して山荘の外へ飛び出した。頭上には、暗い空を埋め尽くすほどの星が広がっていた。湊も言葉を忘れて見上げる。さっきまで騒いでいた千夏も黙っていた。
遠くにある星までこんなにはっきり見える。でも、すぐそばにある空気の圧力は見えない。それでもその力は、鍋の中の水や、今夜のご飯にまで作用する。
「……星も米も、山に来てみないと分からないな」
湊が言う。
「米については、来る前に調べられたと思うぞ」
湧のカメラが、最初の1枚を静かに記録した。
35℃の水を沸かせ
湊は工学部の実験室に、ペットボトルのお茶を4本抱えて現れた。
「今日は勝負の続きだ」
「まだ負けを認めてなかったの?」
「山の上で水が低い温度で沸くのは認める。でも、沸騰っていうからには、やっぱり熱くないと変だ」
湧は透明で厚い減圧容器を示した。中には、35℃の水を入れたビーカーと温度計が置かれている。
「この水を沸騰させる」
「お風呂よりぬるいぞ。沸騰なんかするわけない」
「火は使わない」
「無理に決まってる。もし沸いたら、さっきのお茶は3人におごる」
「もう買ってきてるじゃない」
千夏が1本を取った。湧は容器のふたを固定し、ポンプを動かした。
圧力計の数字が下がっていく。最初に現れた小さな泡は、水に溶けていた空気かもしれない。さらに圧力を下げると、今度はビーカーのあちこちから水蒸気の泡が生まれ、水面全体がぶくぶくと動き始めた。
「うそだろ」
湊は温度表示とビーカーを交互に見た。
「35度で沸いてる。風呂なら追いだきする温度だぞ」
「35度の水でも、周囲の圧力を十分に下げれば沸騰する。高原では頭上の空気が少なかった。ここでは容器から空気を抜いた。起きていることは同じ」
その間にも温度計の数字はゆっくり下がっていた。
「沸騰してるのに冷えてきた」
水が液体から気体になるには、蒸発潜熱が必要になる。その熱を残った水や容器から奪うため、沸騰している水の温度は少しずつ下がっていった。湊は腕を組んだ。
「熱いから沸騰するんじゃないのか」
「温度だけでは決まらないんだ」
詩音が泡を見ながら言った。
「水が置かれている場所も見ないと、本当の状態は分からないのね」
「逆もあるよ」
湧は実験台の端に置かれた圧力鍋を指さした。
「鍋を密閉して加熱すると、内部に蒸気がたまり、圧力が上がる。それにつれて水の沸点も上がるから、100度を超えても液体の状態を保てる。110度から120度くらいの高温で調理できるので、食材を早くやわらかくできるんだ」
湊の目が輝いた。
「あの鍋を高原に持っていけば、あの米も救えた?」
「料理人の腕まで救えるかは分からない」
水は空気を読んでいる?
圧力を下げ、低い温度で水分を沸騰・蒸発させる技術は、果汁などの濃縮にも使われる。高温による香りや風味の変化を抑えられるからだ。
宇宙空間のように圧力がほとんどない場所で、液体の水がむき出しになると、水は安定して存在しにくい。急激に沸騰・蒸発して熱を奪われ、一部が凍ることもある。
「沸騰しながら凍るの?」
千夏が驚く。
「条件によってはね」
「水は空気を読むのが上手なのね」
詩音が言った。
「周りから強く押されれば、熱くなるまで液体でいる。押す力が弱ければ、ぬるくても泡になって飛び出していく」
「じゃあ俺も、高原では気圧に合わせて力を抜いてたんだ」
湊が言う。
「米の芯が残るほど?」
「環境への適応だよ」
「皿洗いから逃げる言い訳への適応がすごいね」
千夏が、実験台の脇に置かれたビーカーを指さした。
「ところで、実験で使ったもの、誰が洗うの?」
4人の視線が湊に集まる。
「……これも気圧のせいにできない?」
「できない」
部室へ戻ると、湊はノートに大きく書いた。
「水は約100℃で沸騰する」
その下に、小さな文字を加える。
「ただし、標準大気圧(約1気圧)のもとで」
高原で激しく沸いていた約93℃の湯。実験室で泡を立てた35℃の水。100℃を超えて食材を煮る圧力鍋。 同じ水でも、周りから受ける圧力が変われば、沸騰する温度も変わる。
湊は、湧が撮った高原の星空を画面に映した。無数の星の下に、4人の小さな影が写っている。
「あの夜、星は見えていた。でも、空気の圧力は見えなかった」
「見えなくても、水を押していたのね」
詩音が言った。
「当たり前のことにも、見えない条件がついているんだな」
湊がつぶやくと、千夏が思い出したように言った。
「そういえば湊、山荘の食器、本当に全部洗った?」
「洗ったよ」
「炊飯に失敗した鍋も?」
湊は答えなかった。
「まさか、気圧のせいにして置いてきたんじゃないでしょうね」
「米粒のくっついた鍋は水につけておくと、汚れが落ちやすくなるんだ」
「いつまで水につけておくつもり?」
「次に山荘へ行くまで」
今度は、3人のため息がきれいに重なった。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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