第43回 村のお葬式(前編)
義父が他界した。山熊田で初めてのうちの家族の葬式だ。今までコマイテ(お手伝い)として関わったことはあったけれど、断片的で、それでもなかなか大変だった。この村のフルバージョンのお葬式というものを、私は初めて知る。
前日から病院詰めののちの明け方の4時。危篤を聞いて来てくれた親族たちや亡き爺やと共に我が家へ戻ると、村中の人が集っていた。狭い家なのでギュウギュウだ。座敷に爺やを寝かせる。その横で、葬儀屋さんと村人たちが葬式にまつわる段取りを話し合い、予定が決められていく。座敷にあったタンスやソファー、道具類をとにかく別室に突っ込んで、会場を急拵えする。酒を振る舞うが、皆寝ていないせいか喉を潤す程度で、そのまま朝になり、来てくれた全員分の朝食を作り、家に戻った人も再び呼んで朝ごはんだ。
驚いたことに、それは始まりに過ぎなかった。ずっと大勢の人が家にいて、毎食10~20人前のご飯の支度が続く。村の女性がコマイテさんとして来てくれるのだが、ほぼみんな高齢で、足腰を痛めていて、口は出すけど動かない、みたいな総小姑化現象。献立から味付け、野菜の切り方まで、各々のこだわりを持つ各家庭の台所の主たちの指示が飛び交い、ぶつかり合い、ついでに物理的にもぶつかり合う。
我が家の台所は驚異的狭さで、人が立てる面積は畳半畳ほど。お尻をぶつけ合いながら揉みくしゃで、どう見たってキャパオーバーな現場だ。「料理はコマイテに任せて、ジョンコは他の大事な仕事をしろ」だとか、「これもあれも買ってこい」「現場を覚えねばダメだ」など様々な指令で溢れ、皆が違うことを言う。私は大混乱。どの話が最優先なのか、そもそも今後何が起きていくのかの流れ自体がわからず、誰に聞いても「普通の葬式だ」としか言われない。私はその「普通」がわからない。私がわからないことが相手にはわからない。カオスだ。
葬儀にはお坊さんを呼んでお経をいただくか、村の婆たちにお願いして念仏を唱えてもらうか、その二択らしい。私は念仏が山熊田らしくて好きだし、爺やも安らげるのではないか、と思った。しかし、格好がつかない、貧相な葬儀では恥ずかしい、との理由で、お坊さんにお願いすることになったらしい。祭壇の飾り花や香典返し、通夜や御斎の振る舞い内容など、葬儀屋さんとの打ち合わせにも我が家の意向はほぼ関係ないようで、親戚の男衆の意見でどんどん決まる。これにも驚いた。決まったと思ったらひっくり返す人もいて、振り出しに戻ったり。あちらこちらで「こだわり合戦」が勃発だ。
続々と遠方の親戚が集まる。早朝から晩までコマイテさんが入れ替わり立ち替わりする。ずっと酒を飲んでいる人もいる。その横で段取りや準備。三度の食事も相変わらずで、食器の片付けが終わったと思ったら次の食事の支度だ。客人の寝所を作り、毎晩酒盛り。徹夜は私でもしんどいのにみんな大丈夫か? 葬式で新たな死人が出るんじゃないか、と本気で思った。
夜もふけて、やっと寝られると思ったら、今度は亡骸のまわりに布団を敷き詰め出した。皆で雑魚寝をするそうだ。やっぱり一緒に寝るのか。土葬だった当時は、棺に入れるために、うずくまる格好で亡骸を筵と藁縄で縛って座敷に安置した。埋葬までその横で雑魚寝するのだが、それがひどく怖かった、と村の爺やは言う。座る姿は動き出しそうだし、雑魚寝の傍で縄が飛ぶこともあったそうで、いくら親しい家族でもそりゃ怖い。土葬じゃなくてよかった……。雑魚寝エリアは早々に満員で、私の入る隙はなくなっていた。
お坊さんがお経をあげるまで、死者はまだ生きている、という考え方らしく、現時点では肉や魚を食べてもいいそうだ。今のうちに冷蔵庫のナマモノを調理しようと朝食の仕込みを始めたが、もはや私の知る台所ではなくなっていた。まずは調味料探しだ。一人の時間がずいぶん久しぶりで、未明に終えて寝室に向かう。自分の家ではないみたい。お線香の香りだけが静かに漂う。
朝4時、掃除機の爆音とコマイテさんたちの賑やかな声。朝ごはんも温めればいいはず、と踏んでいたけれど、じっとしていられない人々は家中で何やらガタゴトやっていて、ありがたいけれど参った。この家で私の布団の上だけは安全地帯と思っていたけれど、それもままならなくなった。疲労がごまかせなくなり、例のさまざまな指令も耳に入ってこない。まずい。苦行だ。眠い。大勢が家に入り浸り、プライベートを侵される心構えもないまま、怒濤の驚きの連続なのだが、もっと恐ろしいのは、まだ通夜すら始まっていないことだった。(つづく)
おおたき・じゅんこ 1977年埼玉県生まれ。新潟県村上市山熊田のマタギを取り巻く文化に衝撃を受け、2015年に移住した。