第17回 食う寝るところに住むところ
落語の前座噺に「寿限無」[じゅげむ]があるのはご存じでしょう。「時そば」「初天神」などと並んで、落語が好きでなくっても何となく知っているはず。長屋の八つぁんの家に子どもが生まれ、せっかくだからとお寺の和尚さんに命名を頼む。なるべくめでたく長寿になる名をと頼んだところ、「寿限無」に始まり、際限なくめでたい言葉が出てきて、それを全部、子どもにつけてしまうところから混乱が起きるという内容だ。
「寿限無寿限無、五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」
これが赤ん坊についた名だ。考えたら最後の「長助」で呼べば事足りるのだが、それでは噺になりません。名前はでたらめのようで、すべて仏教の教えに基づいている。私はこれを空で言える。いつ覚えたか忘れたが、時々呪文のように口ずさんでみるのである。それぞれ意味はわからなくても、何しろ調子がいいし、口にするだけで何となくご利益がある気がするのだ。
とくに好きなのが「食う寝るところに住むところ」の箇所。和尚は「人間、衣食住三つのうち、一つ欠けても生存することはできん」と教えを説く。逆に言えば、これ以外のことは無駄、とは言わないが余計な付け足しということになる。江戸時代の町人は、寄席へ行ったり、花見をしたりと娯楽もあったが、基本線は九尺二間の長屋に住み「食う寝るところ」の範囲内で生きた。この範囲内ならお金だってあんまり使わずに済むのである。
私が時に憧れるのがアパートやマンション、一戸建てではない住居。たとえばトレーラーハウスは海外の映画や小説によく出てくる。基本は自動車で牽引できる車輪つきのボックスで、移動可能だから住民税も固定資産税もかからない(はず)。
すぐ思い出せるのはメル・ギブソン主演の映画『リーサル・ウェポン』シリーズ。腕利きだが精神的に問題を抱えるリッグス刑事は、浜辺のトレーラーハウスで犬と暮らす。ベッドに厨房、シャワーとトイレ室があって、ほぼ生活はこの一台でまかなえる。映画『ノマドランド』でも、定住しない季節労働者たちがトレーラーハウスやワゴン車で集まって暮らし、コミュニティを作っていた。何か面倒なことがあれば、そこを離れればいいのである。
もう一つは港に係留するクルーザーを住居とするタイプ。クリント・イーストウッドの『ブラッド・ワーク』では、元FBI捜査官のイーストウッドが、クルーザーで生活している。同じ桟橋に、同様のクルーザーが何隻か留まっている。見るとかなり高級で、郊外なら家の一軒も建つぐらいの値段ではないか。安いから、というより気楽さを重んじている感じである。ミステリーチャンネルのドラマ『警視ファン・デル・ファルク』シリーズでも、偏屈で孤独な主人公サイモンが、やはりアムステルダムの運河に浮かぶクルーザーを住処にしていた。これも移動可能だ。
現実的に考えれば、これら簡易住宅には問題点も難点もあるだろう。しかし共同体や世間とは隔絶し、必要最小限の営みで自足する生活には、地べたに張り付いた固定住居と比較にならない軽さ、自由さ、そして遊戯感覚が認められる。家賃がかからないというのも大きい。私は、建売の一軒家を所有してから、ほぼ住居に関しては選択の余地がなくなり、ここで息を引き取ることになるのだろうが、そのことを窮屈に感じるというのは、ぜいたくなことなのだろうか。
師走の人形町、江戸・明治の町を歩く
「オカタケ散歩」と称する文学散歩を年に四回程度、ずっと長く続けていて、私の主導により生徒十名から十名強ぐらいを連れて、東京の町を歩いている。もう通算三十回ぐらいにはなるか。日本文学の作品や作家ゆかりの地を訪ねるのを主眼とし、コースと立ち寄り場所を決め、二時間ほど歩いて、最後は居酒屋や飲食店で打ち上げをする(一説には打ち上げが主眼)。気の置けない会だが、参加費二千円を徴収するため、下調べをして資料を作り、必ず事前に現地を下見もする。けっこう手間がかかっているのだ。
次回には、谷崎潤一郎「少年」をテキストに、谷崎の生地である人形町と、小説に出てくるその周辺を歩くことを計画していて、ときは押し詰まった去年の12月30日の午後、下調べの酔狂な散歩となった。スタートを地下鉄日比谷線小伝馬町駅としたのは、地上へ出て交差点北西に「伝馬町牢屋敷跡」のある十思[じっし]公園があるからだ。安政の大獄に連座した梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰などがここで獄につながれ処刑された。公園隅に「吉田松陰終焉之地」と辞世の歌の石碑がある。私は高校の頃、司馬遼太郎(※)『世に棲む日々』を読んで、吉田松陰の短い生涯に感動し、萩にある松下村塾も訪ねた。司馬作品が描いた竜馬、土方、益次郎よりも松陰が好きである。
※正しくは「遼」の字のしんにょうの点は二つ。

高校生の頃からのファンなのである

辞世の句の石碑
この小伝馬町より人形町へかけての一帯には、浅草へ移る前の遊郭「吉原」があった。
芝居小屋、寄席、料亭などがここにひしめき合い、一大歓楽街を形作った。浅草へ移ったのは明暦の大火(1657年)で一面焼け野原となったからだ。明治年間には水天宮の存在が街の活気を牽引した。現在の小伝馬町以南は商業ビルが乱立し、色気も何もあったものではないが、元吉原の名残りは人形町通りの二本西、南北を貫く通りが「大門通り」と名付けられ、ここに遊郭の大門があったことを示す。日本橋堀留町も遊郭の「堀」に由来する命名で、堀跡は今「堀留公園」という公園になっている。歩けばまだ江戸の気風を拾うことができるのだ。
人形町通りと織物中央通りが交差する信号近く、椙森[すぎのもり]神社がある。日本橋七福神の一つ。境内の「富塚」を見逃してはならない。江戸期、ここで「富札」(現在の宝くじ)が売られたことを記念する、日本唯一の富塚である。
古今亭志ん生「富久[とみきゅう]」では、酒で得意先をしくじった幇間[ほうかん]の久蔵が、暮れ迫る師走に知人から千両富の札を買う。これが一分。落語の世界で「そば十六文」から現在の物価に換算すると一両が十万円、その四分の一である一分は二万五千円と高い。実際には幕末の一両は現在の五万円ぐらいとの説もあるから一万二千五百円だがそれでも高い。

宝くじを買う人は、買うたびに参拝するのがいいだろう
「富久」は歴代の落語上手が手掛けたが、演者によって富の勧進元が違う。広瀬和生『噺は生きている 名作落語進化論』(毎日新聞出版)の調べによれば、「文楽では深川八幡、志ん生では椙森神社、可楽は湯島天神」(文楽は先代)である。いちばん好きな志ん生が椙森神社でよかった。この富塚の前にいると、ちょうど七福神巡りをしているらしい若い男女三人組が本殿に参拝していた。そのうちの人懐っこい顔をした男の子に声をかけ、「これが富塚や」と由来を説明し、「お参りしたら宝くじが当たるぞ」と無責任なことを。若者は素直に塚の前で手を合わせ「宝くじを買います」と言うので「当たったら一割もらうからな」と返したら本気で驚いていた。変なおじいさんだと思ったろう。ここだけの話だが、私は「変なおじいさん」である。
このあと人形町交差点近くの「玄冶店跡[げんやだなあと]」(お富と切られ与三郎)の碑を見て、親子丼で有名な「玉ひで」、向田邦子も通ったレトロ喫茶「快生軒」を目で撫でて(年末休業中)、同じ筋の「谷崎潤一郎生誕の地」の碑を拝む。年譜によれば、谷崎は明治19(1886)年に、東京市日本橋区蠣殻町二丁目14番地に生まれる。これが生誕の碑がある現在の日本橋人形町一丁目7番地である。生家は米の相場紙の印刷所で裕福だった。
「少年」は明治44年『スバル』に発表された初期作品で、水天宮を中心に、主人公が通う有馬小学校、蠣殻町、浜町あたりが舞台となる。
「少年」は有馬小学校だが、谷崎が通った阪本小学校へ日本橋川を渡りたどり着いて、ここを散歩のゴールとした。歩数計は約一万歩を示す。いずれの学校も都心にありながら現存するのが素晴らしい。私の2024年はこうして暮れていったのだった。

街っ子谷崎の生地にふさわしい周辺の賑やかさだった
タイトル、本文イラスト、写真=筆者

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。