第13回 故障を抱えつつも、軽やかに甲州そぞろ歩き
「村の渡しの船頭さんは、今年六十のおじいさん」という唱歌について関川夏央が書いている。「小津安二郎映画の老人は、『老残』か『老成か』」(※)。いまあらためて読み返すと、ただびっくり。六十でおじいさんかよ。当時は数え歳が普通だったから、満では五十九。五十八かも知れない。「それはないだろ」と言うのだ。この文章を書いた時、関川は六十代半ばに達していた。
ちなみにこの唱歌。もとは昭和16年に作られた戦時歌謡で、もっと国威高揚の意味合いが強い内容だった。船頭さんもお国のために働いているというわけだ。戦後、歌詞は変更となり、「戦時」の気配は消され、ソフトでローカルな歌に作り替えられた。昭和16年の「六十」を配慮せねばならない。今や国民の四分の一が六十五歳以上の高齢者と言われる。私もその一人。「おじいさん」と呼ばれたら、やはりまだギョッとする。心の準備ができていないのだ。
関川はさらに「戦時」中という時代に注をつける。「なにしろ幼児死亡と若年結核死が多かったから、六十歳になれるのは同年生まれの半数に満たず、還暦になっただけで人生の勝者といえた」
※『夏目さんちの黒いネコ やむを得ず早起き2』(小学館2013年)
こんな不景気な話題から始めたのは、いや六十五歳を超えれば、今だって「老化」はひしひしと実感できるからだ。今年七月、寝違えたのか、頸筋に激痛を覚え、ただ座っているだけでも痛くて往生した。湿布その他のケアをして完治には一週間を要した。
「咳をしても一人」と尾崎放哉は句に詠んだが、「咳をしても痛む」日々にまったく弱ってしまった。
続いて九月に入ってから、急に左目(というか眼球裏とその周辺)に痛みが走り、涙と鼻水が止まらなくなった。丸二日、目が開けられず(無事なほうの瞼を開けても痛む)、本は読めず、テレビも見られず、原稿も書けず進退窮まった。四日ほどで目が開けられるようになり、溜まった締め切り原稿を一日に四本書いた。やればできるのである。
まあ、そんなわけで、五十代までは経験のない、体の故障があちこち出始めた。考えたら、家電製品なら六十年酷使すればお払い箱だ。故障しても換える部品もない。深沢七郎はどこかで、人間はそもそも他の動物と比べて長生きしすぎなんだと発言していた。本当は二十代くらいがちょうどいいと言う。まあ、二十代ならみんなきれいで健康なまま死ねる。もう少し長生きしたい気もするが……。
あれ、変な話になっちゃった。まあ、ポンコツはポンコツなりに、ガタピシと悲鳴を上げながらなんとか歩いているということです。「青春18きっぷ」を三人でシェアして北杜市のサントリー白州蒸溜所へ行ったことは前回書いた。残りの二回のうち一回で中央本線山梨市駅へ行ってきた。九月七日、残暑と呼ぶには暑すぎる一日だ。「青春18」を買うと、必ず一回は中央本線を攻める。しかし山梨市駅はこれまで未踏でスルーするだけだった。いっちょ行ったろかと軽い気分で高尾駅から乗り継ぎ山梨市駅へ。
事前の調査で、駅前に「チロル」という喫茶店があること、「鉄道王」根津嘉一郎旧邸が記念館になっていることを知りこれを目標に。高尾駅からは一時間半だ。山梨市駅で下車し、駅前へ出たが人影もなくバスロータリーはがらんとしている。立ち食いそば、牛丼、コンビニ各種店舗は見当たらず、隣接するマンション棟の下は四、五軒の店舗になっていたがいずれも廃業。ただ日差しだけが強い。
喫茶「チロル」は目の前で、開店同時ぐらいに入店。これも調査済みの「チロルやきそば」(400円)とアイスコーヒー(300円)を注文する。メニューにはラーメンとあったが消されていて、食べ物はこの一品のみ。土佐の一本釣りだ。注文を聞きにきたのは高校生か大学生か、若い男の子だ。客は私一人だったが、少したって常連らしき夫婦(注文は土佐の一本釣り)と、テイクアウトでやはり「チロル焼きそば」を買っていった老女がいた。店の若者を見て、厨房の男性(姿は席から見えない)に「あら、娘さんの……。じゃあ、お孫さん」なんて話しかけている。どれだけ「チロル」の家庭事情に食い込んでいるんだ、という話だ。
「チロル焼きそば」は、小片キャベツと麺を薄めの味付けで炒めた上に、スパゲティのミートソースがかかっているという表現でいいか。大盛りは500円だが、いや普通で十分。土台は同じ麺だから違和感はない。病みつきになるとは言わないが、選択肢がないから迷いはない。しかも安い。
次に「チロル」からすぐの「道の駅」を訪ねたが、レンタサイクル(100円)は出払っていた。「予約はされました?」なんて係の人に聞かれたが、これまで数十回、各地で自転車を借りたが、要予約は初めて。「根津邸」へはバスもあるが、本数は少なく「歩くとなるとちょっと」と言われ、あっさりあきらめる。
「チロル焼きそば」確保で目標の一つは達成、このまま帰ってもよかったが、まだ十二時過ぎだ。その場で決断し、ふたたび車中の人となり二つ先の石和[いさわ]温泉へ。こちらも未踏駅。こんな軽はずみな行動が打てるのも、乗り降り自由の「青春18」ならでは。そこへもともと「軽い」私がくっついているから足は地面から浮いている。
石和温泉は歴史ある温泉観光地。駅前も開け、スーパーはじめ飲食店も多数。観光案内所でガイドマップをもらい、ゴールを公衆浴場「石和温泉」と決めて、それまでの時間を使って山梨県立博物館を見学することにした。バスの時間はまだ一時間あるというので、迷わず電動自転車を借りる(三時間1000円)。見知らぬ街をうろつく時、自転車を使うのは鉄則で、行動範囲が徒歩やバス利用の四、五倍に広がる。
案内所で教わった通り、駅前から大通りへ出て、途中、笛吹川を渡ると一帯は果樹園とその販売所。駅から十分ほどで博物館に着いた。竹林と広い庭を擁する平屋の陶板を寝かせたような建物で周囲に水を配している。窓口へ行くと、六十五歳以上は入館無料だという。幾度、公共施設でこの恩恵を受けてきたか。これならもっと早く、二十年前ぐらいに六十五歳になるんだった。
博物館には二時間ほどいたが、まったく見飽きない刺激的な施設であった。化石や農具をただ並べ解説を付すというのではなく、映像、ジオラマ、フィギュア、紙芝居ふう、床に投射されたマッピングなど多彩に仕掛があり飽きさせない。これなら文字の読めぬ幼児でも楽しめるだろう。見せる、体験させる施設としてはまずAクラス。ここは来てよかった。
石和が青梅、鎌倉、甲州と古くから街道が交差する要衝の地で、武田信虎(信玄の父)が現・甲府へ居城を移すまで、石和が甲斐の中心だったのである。果樹の王国となったのは、度重なる笛吹川の氾濫で荒れた土地を開墾し、再生させたから。温泉の湧出は意外に遅く、昭和三十年代のこと、湯質は低温など、一挙に知識も増えた。
炎天下ながら、博物館まわりを囲む庭も歩いてみた。さまざまな木が植わり緑陰を作る。その木の下で、いくつか種を拾い用意した封筒に入れ持ち帰った。その理由は、少し先で。
名物の湯を体験しようと、駅近くまで戻り、路地裏の公衆浴場「石和温泉」へ。430円(安い)と銭湯料金で入れる温泉だ。休憩所がアルコールも提供する食堂になっていて、広いスペースが確保されていた。湯舟は二槽と広くはない。カランをひねるとお湯も温泉でほんのり香りがする。体と頭を洗って湯に身を沈める。たしかに東京下町の激熱(ほとんど入れない)に比べたら温度は低め。単純泉だろうかお湯は透明。ただし、私は体質なのか、温泉に長く浸かっていられない。三分ほどたつと、ウルトラマンみたいにカラータイマーが点滅を始める。
それでも十分に温まって、案内所へ自転車を返却し、キオスクでビールを買って帰途についた。夕方四時くらいだったろうか。山梨市駅「道の駅」で自転車を借りられず、思いがけない石和訪問となった。それもまたよしと、ハプニングを受け入れ楽しめる「軽さ」をいつまでも持ち続けたい。
さて前回の「俳句入門」に続き、地元公民館で開催される講座に出席した話を。今回は植物観察家・鈴木純さんを講師に「秋の植物 実とたねのおはなし」を受講(無料)。さまざまな花の生態と、そこから生まれる実と種の話をたくさんの写真で解説、これが思いのほか楽しかった。二時間があっというま。「花のあるところに実はある」という「花も実もある」話で、しかも、それらが目まぐるしく活動し、別の場所へ移動していくからくりが手品のようであった。
本来、もっとくわしく書きたいところだが、せっかく取った克明なメモが今見当たらない。残念だ。木や花の下に落ちた種が移動するのに、風、人、虫などが媒介する。記憶で書くが、黒い種に白い部分があって、それを好むアリが巣へ運ぶ。白い部分(脂肪)はエサになり、黒い不要な部分は巣の外へ出され、それが発芽する……などは、ふだん道を歩いていても意識されない世界だ。静かに思える植物が、じつは激しく動いているというのがファンタスティックかつ、感動さえ覚える。そんなわけで博物館の庭で種を拾った。ほかに名物のお土産も買わず、これが山梨のお土産だ。心も軽けりゃ荷物も軽い。
タイトル、本文イラスト、写真=筆者
おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。