【BOOKS】ウンベルト・エーコ著 河島英昭/河島思朗 訳/『薔薇の名前 完全版』(上下)◎澤一澄

挫折した人は再チャレンジを

『薔薇の名前』。ウンベルト・エーコの書いた小説よりも、ショーン・コネリー主演の映画で知った人も多いだろう。まさにはまり役だった。小説はイタリアで1980年に発行。ジャン=ジャック・アノー監督で1986年に映画化。映画では、中世イタリアのキリスト教修道院を舞台に迷宮のような図書館でおこる殺人の謎をめぐる歴史ミステリー。日本語版は1990年に発行されたが、映画とくらべると驚くほど難解で、途中で読むことを挫折した人もいたほど。発行当時は『薔薇の名前』を読むための本が発行された。 

 記号論学者・哲学者・作家と幅広い活躍をしてきた著者エーコは、『薔薇の名前』発行後も訂正を入れてきた。2016年に逝去。訂正版の日本語翻訳は、著者が生前に書き上げた訂正版の草稿と、さらに訂正してイタリアで発行された2020年版、それと旧版を比較して翻訳、という大変な作業になった。こうして発行されたのが日本語の『薔薇の名前[完全版]』。物語の前に作者の新版発行への付記、物語の後に旧版発行後に書いた覚書、構想中に描いた登場人物や図書館の素描やメモが盛り込まれている。 

『薔薇の名前』が難解なのは、物語に入り込むために、その背景、14世紀初頭のキリスト教世界の知識が必要になるからだ。西欧キリスト教世界の歴史と地理、聖書などキリスト教学、中世キリスト教修道院の内情、中世の生活などなど。舞台となった修道院がそそり立つ山のように、登るのに苦労する。しかし旧版の日本語版が発行されたころと違って、完全版の読者には少し安易な抜け道がある。インターネットでわからないことは検索できる。 

 物語は「私」と名乗る人物が、メルクのアドソという14世紀のドイツ人修道僧が書いたという手記を、とある修道院長のフランス語訳で見つけたことから始まる。アドソが実在の人物だったと知った「私」は、彼がラテン語で書いた手記をフランス語からイタリア語に訳した。これが本編の物語だ。 

 老いた修道僧メルクのアドソが、少年のときに巻き込まれた恐ろしい事件を語る形で物語は進む。ベネディクト会の見習修道士だったアドソは、博識なフランチェスコ会修道士、バスカヴィルのウィリアム(映画ではショーン・コネリーが演じた)に預けられる。バスカヴィルという名前で思いつくのは『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズの「バスカヴィル家の犬」。同時代の神学者で哲学者でもあったオッカムのウィリアムがモデルでもある。ウィリアムとアドソの師弟はホームズとワトソンのように事件を追う。 

 北イタリアの山の頂きに立つベネディクト会修道院に招かれていたウィリアムに付き従い、アドソも修道院の門をくぐる。アドソが見たことのない立派な修道院だった。そこでウィリアムは僧院長からつい先日の修道僧の不審な死についての捜査を頼まれる。その捜査中に、またもや修道僧が不審な死を遂げる。修道院に何があるのか。 

 ウィリアムがこの修道院に招かれたのは、西欧カトリック教会の大問題のためだった。神聖ローマ皇帝とローマ教皇は聖職者の任命権をどちらが握るのかを争っていた。教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移動。さらにアヴィニョンの教皇ヨハネス22世は、フランチェスコ会を弾圧し始めた。フランチェスコ会はウィリアムや同志とともに教皇派と話し合いの場を持たねばならなかった。しかし、そのあいだにも修道僧の不審死は続く。修道院を不安と不信が支配する。 

 著者は「自分は中世について書いているのではなくて、中世のなかで書いているのだ」と言っている。それならば読者も中世に入り込まなければならない。知らない世界に入り込むことができるのは、読書の醍醐味。洋の東西を問わず、人々の安寧を祈る宗教にも人間の業が煮えたぎっている。暗い時代に、ウィリアムの明晰な精神とアドソの純粋さが、物語の救いだ。

薔薇の名前[完全版]上下

ウンベルト・エーコ 著 

河島英昭/河島思朗 訳 

東京創元社 上 3300円/下 3520円(税込) 

ウンベルト・エーコ(Umberto Eco) 

1932年、北イタリア、アレッサンドリア生まれ。記号論学者、評論家、哲学者、文学者、作家。トリーノ大学で中世美学、トマス・アクィナスを研究。卒業後、イタリア放送協会の文化番組や出版社ボンピアーニ社の評論部門に関わる。ミラーノ大学、フィレンツェ大学を経て、ボローニャ大学の記号論の教授に就任。同大学名誉教授。2016年2月没。主な著書に『開かれた作品』『記号論』『薔薇の名前』『フーコーの振り子』『プラハの墓地』など。 

河島英昭

かわしま・ひであき 1933年生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業、同大学名誉教授。2018年5月没。『ウンガレッティ全詩集』でピーコ・デッラ・ミランドラ賞、『薔薇の名前』で日本翻訳文化賞、 BABEL国際翻訳大賞、日本翻訳出版文化賞、『イタリア・ユダヤ人の風景』で読売文学賞受賞。他にカルヴィーノ、パヴェーゼ、マキアヴェッリ等の訳書、『イタリアをめぐる旅想』など著書多数。 

河島思朗

かわしま・しろう 1977年生まれ。博士(文学、首都大学東京)。京都大学大学院教授。著書に『基本から学ぶラテン語』『古代ローマ ごくふつうの50人の歴史』など。 

澤 一澄

さわ・いずみ 1968年、神奈川県生まれ。東海大学大学院博士課程前期修了。専攻は中世アイスランド社会史。出版社勤務を経て司書。公共図書館・博物館図書室・学校図書館勤務のあと、現在介護休業中。アイスランドに行きたい毎日。写真は、今は亡き愛犬クリス。 

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