台湾への愛と葛藤を伝える
『サウダーヂ』では山梨県甲府を、『バンコクナイツ』ではタイとラオスを舞台に、現況に絡みつく歴史の〝根〟を洗うような映画をものしてきた映像制作集団「空族[くぞく]」の新作は、台湾原住民の村々が舞台らしい。
と知って、そう来なくっちゃ! たっぷり! と掛け声をかけたくなるほどには空族のファンだし、台湾原住民にも興味を持っていたつもりの私だが、日本統治期の台湾山地で原住民と暮らし、その経験を活かした作品を綴って芥川賞候補にまでなった小説家がいたとは知らなかった。
熊本県八代に生まれ、日本と台湾を往還した小説家・坂口䙥子[れいこ](1914~2007)の生涯を描く、初の評伝が本書である。䙥子と同郷の著者が、親族への取材や、未発表原稿の発見などを通し、「日本と台湾の文学を繋いだ先駆者[パイオニア]」の営みを浮き上がらせていく。
日清戦争の下関条約(1895年)にはじまり、第二次世界大戦が終結(1945年)するまで、半世紀にわたって、台湾は日本領だった。1938年、二十三歳だった䙥子は初めて台湾に渡航し、日本からの農業移民の子らが集まる小学校の教職に就く。翌年、郷里に戻るが、旧知の短歌誌同人で台湾在住の坂口貴敏から求婚され、再び台湾へ。台湾文壇での精力的な執筆、二子の出産、台湾山地への十ヵ月間の疎開を経て、1946年に日本に帰還した。
戦後は熊本で教員をつとめながら、様々な同人誌に参加し、1953年に「蕃地」で新潮社文学賞を受賞する。1961年には「蕃婦ロポウの話」で芥川賞候補となり、その後も「猫のいる風景」、「風葬」で同候補に。1962年、四十七歳で上京し、晩年までを東京の豊島区と練馬区で過ごした。
私事になって恐縮だが、2000年代、私は豊島区に住んでいた。練馬区にも程近い。戦中の台湾山地に住んだ経験を持つ作家が、ほんの最近まで、かなり近くで暮らしていたのだなあと、過去と現代がゆくりなく繋がるような不思議な感慨を覚えた。上京当初、生活に困窮していた䙥子は、豊島区椎名町の陸橋から身を投げようと考えたこともあるという。「蕃婦ロポウの話」(加えて本書に付録された未発表小説「樹霊」)の崖道のシーンとも重なり、強く印象に残るエピソードに感じられた。
台湾を舞台とする䙥子の小説が主に描くのは、多民族の混交と生活、そして霧社[むしゃ]事件の傷跡である。
日本統治期の台湾には大きく分けて、「内地人」(日本列島からの移民)、「本島人」(中国大陸からの移民)、台湾原住民が混住し、日本は台湾原住民を「蕃人」、彼らが住む地域を「蕃地」、集落を「蕃社」などと呼称していた。「蕃社」の一つ、マヘボ社の頭目であったモーナ・ルダオ率いるセデック族の男たちが、日本の圧政に耐えかねて武装蜂起し、「内地人」134名、「本島人」2名の殺害に至ったのが、1930年の霧社事件である(近年では映画『セデック・バレ』の題材にもなった事件だ)。
警察当局による、蜂起に加担しなかった同族を動員しての報復や、飛行機での爆撃で、約1200人いた蜂起部落の人口は激減し、生き残った298名は故郷を奪われ、新たな「蕃社」となる「川中島」へと強制移住させられる。
1945年に䙥子が疎開した先は、「川中島」に隣接した「中原」という「移住蕃社」だった。そこで耳にした原住民たちの、霧社事件をめぐる記憶の断片が、戦後の小説に織り込まれていくことになる。
著者は䙥子の足跡と比べつつ、戦中戦後にまたがる作品群をつぶさに読み解く。ときに軍部の思惑に反する、発禁処分を受けるような小説を書き、ときに皇民化運動に利する、戦争協力的な小説を書きもした作家の、戦中における揺れを抽出する。さらにはその裏で抱えられていた、宗主国の人間であるという罪責感が、戦後の作品にどのような変化をもたらしたのかを掘り下げる。とりわけ、定型としての〈ロマンス〉に近づきつつも宙づりにする「蕃婦ロポウの話」の特殊性を見出し、津島佑子の小説『あまりに野蛮な』と結びつけて再評価する読解が、大いに腑に落ちた。
かつての植民地政策に負い目を感じ続けていたという䙥子だが、1971年、25年ぶりに渡台した際は、多くの台湾作家や原住民の友人に迎え入れられ、旧交をあたためている。日本と台湾の文学を繋ぐとともに、台湾への愛と葛藤のはざまで模索し続けた小説家なればこその、素敵なエピソードに思えた。


さとう・やすとも 1978年生まれ。名古屋大学卒業。文芸評論家。 2003年 、「『奇蹟』の一角」で第46回 群像新人文学賞評論部門受賞。その後、各誌に評論やエッセイを執筆。『月刊望星』にも多くの文学的エッセイを寄稿した。新刊紹介のレギュラー評者。
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