日本にさまざまな影響を与えてきた北欧神話集
『完全版 エッダ 古代北欧歌謡集』のもとになった『エッダ 古代北欧歌謡集』は、1973年にドイツ語学、ドイツ文学、北欧文学の研究者である谷口幸男氏が発行した。はじめての本格的な北欧神話研究の本といっていいだろう。当時は、北欧の本というと『長くつ下のピッピ』『ムーミン』シリーズなどの児童書が人気だった。
この本には二つのエッダと呼ばれる北欧神話物語の日本語訳が収録されている。まず「古エッダ」という北欧の神話世界を語る韻文詩集。原本はアイスランドで13世紀に書かれた写本だ。冒頭の「巫女の予言」では、巫女が神オーディンの問いに応じるかたちで、世界の創世から終末を語る。奈落の口しかない世界の初めから巨人族の誕生、神々の誕生、神々による世界の創世と人間の創造、神々と巨人たちの戦いと世界の滅亡、そして再生。北欧神話では「神々の父」と言われるオーディンですら全能ではない。最強の戦神ソールも最後には倒れる。神々は古い巨人族に脅かされ、世界はいつも暗く戦いの気配に満ちている。
北欧神話にはヨーロッパに伝わる伝承も入っている。ドイツの伝承『ニーベルンゲンの歌』が形を変えて伝わったようだ。英雄ジークフリートは北欧ではシグルズとなる。ヴァルキューレのブリュンヒルドは彼と恋に落ちる。この北欧の伝承は、ヴァーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』の原案となった。ローマ帝国末期に東からやって来たフン族の王アッティラが、北欧ではアトリという名で登場する。人間関係などは『ニーベルンゲンの歌』とは異なるが、同じ源泉から流れてきた物語だろう。
エッダのもう一つは「スノッリのエッダ」。13世紀アイスランドの文筆家にして政治家スノッリ・ストゥルルソンが書いた。こちらは旧版で全部は収録できなかったが、今回の『完全版 エッダ』で後に訳者谷口氏による全訳を加えて、二つのエッダがそろうこととなった。自身も詩人であるスノッリは、神話を物語る一方で、詩人のために詩作の規則などを教える。
どちらのエッダも、戦いで頼みとするのは自分の力と知恵のみ。勇猛と勝利を誉れとし、負けるかもしれない戦いでも死を恐れない。戦い急ぎ、死に急ぐ。
北欧神話世界の影響を受けた創作で一番有名なのはJ.R.R.トールキンの『指輪物語』だろう。トールキンは中世の古英語を研究していた。古英語は古北欧語と縁の深い言語だ。トールキンは北欧神話にも造詣が深かった。
旧版『エッダ』は日本に北欧神話世界を広めるきっかけとなった。『完全版 エッダ』を監修した伊藤氏や小澤氏のような現在活躍している北欧研究者に道を開いた。また小説や漫画、ゲームなどの創作者は、北欧神話から中世西洋風世界のエッセンスを作品に取り入れた。
神話であろうと時代や国を超えて語り継がれ読み継がれるものは、読み手によって読み直され語り直される。
このたび転生して生まれた『完全版 エッダ』。日本の新しい読者にどのように読まれるか、影響を受けた読者がどんなものを創造するか楽しみだ。

たにぐち・ゆきお 1929年、東京都生まれ。東京大学文学部独文科卒業。広島大学名誉教授。ドイツ語学・文学、北欧文学、ゲルマン文化史専攻。アイスランドを中心とする中世期の北欧文学を体系的に翻訳・紹介するとともに、日本アイスランド研究会(現・日本アイスランド学会)初代会長を務めるなど、日本における古北欧文学研究を牽引。初版『エッダ─古代北欧歌謡集』(新潮社)で日本翻訳文化賞を、初版『アイスランド サガ』(新潮社)で藤村記念歴程賞を受賞。1990年、アイスランド政府より鷹勲章を、2012年には瑞宝中綬章を受章。2021年没。
いとう・つくし 1965年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。信州大学・大学院、人文学部・総合人文社会科学研究科教授、中央大学人文科学研究所客員研究員。日本アイスランド学会前会長(2022~2024年)。研究分野は英語史・中世英語、北欧語文献学。映画『ロード・オブ・ザ・リング』日本語吹き替え版エルフ語監修。著書に『「指輪物語」エルフ語を読む』(青春出版社)、訳書にダニエル・ドナヒュー『貴婦人ゴディヴァ─語り継がれる伝説』(慶應義塾大学出版会)など。
おざわ・みのる 1973年、愛媛県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。立教大学文学部教授、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター共同研究員。日本アイスランド学会会長(2024~2026年)。研究分野は西洋中世史、北欧史、史学史。著書に『グローバルヒストリーのなかの近代歴史学──歴史を捉え、書き、編む』(佐藤雄基と共編著、東京大学出版会)、『イタリア古寺巡礼』シリーズ(金沢百枝と共著、新潮社)など。

さわ・いずみ 1968年、神奈川県生まれ。東海大学大学院博士課程前期修了。専攻は中世アイスランド社会史。出版社勤務を経て司書。公共図書館・博物館図書室・学校図書館勤務のあと、現在介護休業中。アイスランドに行きたい毎日。写真は、今は亡き愛犬クリス。
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