人と犬がつくった理想の空間
島根県大田市大森町。かつて石見銀山の鉱山町として栄えた町には、銀山川沿いの谷間に2・8キロにわたって古い家並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定されている。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような、人口四百人ほどのちいさなこの町に、松場登美さんと相棒の〝福〟は住んでいる。
本書『とみとふく』には「76歳、古民家ひとり暮らしの登美さんと、保護犬フレンチブルドッグ福の幸せな日々」という長い副題が添えられていて、ひとりと一匹の充足した関係を軸に、素朴な物語がのんびりと展開されてゆくのだろうと想像される。その予想はもちろん的外れではないのだが、実は少し裏切られる。というより、これが単なるほのぼのストーリーではないことに気づくのだ。
登美さんは、夫とともに創業した服飾ブランド「群言堂」のデザイナーを三年半ほど前に引退したのを機に、次女の勧めにしたがって犬を飼い始めた。それが当時三歳の保護犬・福だった。現役を引退したとはいっても、登美さんは忙しい。築二百年を超える武家屋敷を自ら再生し運営にあたり、時には群言堂の向かいにある工房で仕事にいそしむ。そのかたわら、福のことをインスタグラムにアップすると、あっという間にフォロワーが増え、二万以上に。夫とは二十年以上前から「仲良し町内別居」中で、『なかよし別居のすすめ』や『過疎再生』(いずれも小学館)ほか、たくさんの著書がある。メディアからの取材もめずらしくない。つまり、登美さんはただものではないのである。
さて、「フレンチブルドッグ福との幸せな日々」をつづった本書はフォトエッセイで、一番の魅力は何といっても写真の美しさにある。思わず笑みがこぼれてしまうような、表情ゆたかで愛らしい福の姿、町の人々と交流する登美さんと福、今にもふたりの会話が聞こえてきそうなほほえましいショットなど、どの写真にも深い余韻が残る。写真のシーンとぴたりと合った、軽妙な文章はさすがだ。背景を彩る大森町の美しい自然と街並みが、本書にいっそう落ち着きと陰影を与えている。
福と暮らすようになって、登美さんの生活は一変した。〈福との出会いは一期一会、天の配剤としか思えない〉と登美さんは書いている。福がやって来てからは、福が生活の中心となった。迎え入れる家の改修は、福がいる暮らしをイメージして進め、福が夏バテすればエアコンを福にとっての適温に設定。福の様子にちょっとでも気になるところがあれば、すぐに病院に駆けつける。それまで夫には申し訳ないほどひとり暮らしの自由を満喫していた彼女が、福と見つめ合うだけで私は癒される、と告白するまでになる。
福は特別な存在。自身がこれから生きたい年数とフレンチブルドッグの平均寿命を秤にかけ、ほぼ一緒の頃に逝けそうだと安堵するエピソードからも、登美さんの心情は察するに余りある。
〈憧れのターシャ・テューダーが大自然の中でコーギー犬と理想のライフスタイルを作り上げたように、私は福とささやかながらも私の理想の空間をここに作り上げたいと思う〉という言葉で、彼女は最終章「福と私の終の住処」を締めくくっている。このたび新しく建てたふたり(あるいは夫も含めて三人)の家は、かつて西村幸夫東大教授から「この会社は雑貨業でもアパレル業でもなく、夫婦の生き方が産業になっている」と評された彼女の集大成でもある。あくまでもプライベートを重んじ、自分だけの世界を作り上げた海の向こうのターシャとはスタイルが異なるが、地域や各地からの人々を求心的に巻き込み、自らの事業をライフスタイル産業として発展させた登美さんは、自立した女性の生き方のもうひとつの例を示してくれている。

『とみとふく』
松場登美 著
小学館 1870円(税込)
松場登美[まつば・とみ] 三重県生まれ。1981年、夫・松場大吉の故郷、島根県大田市大森町に帰郷。1989年、町内の古民家を改修し「BURA HOUSE」をオープン。1994年、服飾ブランド「群言堂」を創業。デザイナー兼株式会社石見銀山生活文化研究所の所長として活躍する。2008年より、築200年を超える古民家を改装した宿泊施設「暮らす宿 他郷阿部家」を運営している。2021年、「令和2年度ふるさとづくり大賞」内閣総理大臣賞受賞。2023年、所長を引退。著書に『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(小学館)、『登美さん』(いま&ひと)など多数。

同じく美しいフォトエッセイのこちら(↑)もおすすめです。
『登美さん つくる、つくろう、私の人生』(いま&ひと、2025年)
まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。

