料理すること、食べること、それは生き方そのもの
料理研究家・辰巳芳子さんの「いのちのスープ」が、父への介護経験から生まれたものであることはよく知られている。嚥下障害があり、とろみのあるスープだけが喉を通った父のために作ったスープだから「いのちの」と名づけられたのだと、私は単純に理解していた。だが、辰巳さんのいうスープとは子どもからおとなまで、人々のいのちを守り、育て、活力を得て志を達成せしめていくものだという、より深く広い意味を含んでいる。
辰巳さんが鎌倉の自宅を開放して、二十年以上にわたり開いていたスープ教室は、現在オンライン教室が主軸となっている。その主任講師をつとめるのが本書の著者・対馬千賀子さんである。実をいうと、対馬さんには『滋味深い料理』という最近出されたレシピ集もあるのだが、今回はその新著ではなく、師である辰巳さんの人となりをよく伝える書として、昨年刊行された本書を紹介したい。
対馬さんは、縁あって2003年から辰巳さんの自宅に内弟子として住まうようになった。以来十七年間、辰巳さんの日々の食卓を整える役割を担った。対馬さん自身、名店や温泉旅館で修行を積んだ料理家だったが、レストランで供する特別な料理だけでなく、根本的な日常の家庭料理をきちんとつくれるようになりたいと願っていたという。家庭料理の重鎮である辰巳さんとの出会いは必然であった。
本書には2009年7月半ばから翌年7月末まで、出張などでとくに記録のない日を除き、約一年間の辰巳家の献立が収められている。一日三食、実際に口にした食事内容が子細に記され、当時八十歳代半ばの辰巳さんがどれほどバラエティに富んだ食事を摂っていたかが、手に取るようにわかる。
メニューのうちいくつかは、月ごとに写真入りでレシピが紹介されている。春は五目ずしに白魚の卵とじ、豆ごはんなど、夏はおかひじきの酢のものや野菜の天ぷら、ところてん……。秋には鶏の水炊き、蓮根団子と青菜のスープ、ねぎとみょうがの卵とじなどが、冬はりんごのケーキ、パエリヤ、ポタージュ・ボン・ファム(いのちのスープを象徴する、たまねぎ・にんじん・セロリ・じゃがいもを材料とするスープ)等が登場する。シンプルで織り目正しい、ほっとするような料理の数々。どの料理にも凛とした美しさと存在感があり、それこそが家庭料理のもつ力なのだろう。
また、随所に辰巳さんが折々に発したことばが収められ、本書のもう一つの柱となっている。厳しいことで知られる辰巳さんの素の姿を彷彿とさせるような、何げない日常のやりとりも挟みこまれていて微笑ましい。一般に師について語ることは難しいものだといわれるが、対馬さんはほどよい距離感と温度で、師の人間的魅力を描き出している。なかでもとくに印象的な一節を引いてみよう。東日本大震災の起こった年、辰巳さんが語ったものだ。
〈いざという時に救ってくれる料理は、特別なものではありません。味噌汁、煮豆、目刺し、白菜漬け……。母が必要に迫られて作った料理。小さなころに食べさせられたものが、結局は我が身を救ってくれるとしみじみ思います〉
料理をする作業には、人間形成の具体的な場があると考える辰巳さんならではの味わい深いことばである。
過去には、お父上とのこんな忘れがたいシーンも紹介されている。〈冷やしたトマトジュースやガスパチョを、夕食に間に合うよう病院に持ってゆきます。父は一口飲んで、大きな溜息をつき、なんとも言えぬ笑顔で私を見つめてくれました。胸に宿るそうした笑顔で、人は生き続け得るのです〉(『辰巳芳子の展開料理 応用編』より)
料理とは愛であり、生き方である。辰巳さんのことばの一つひとつが、そう私たちに語りかけている。

対馬千賀子 著
朝日新聞出版 2750円(税込)
対馬千賀子[つしま・ちかこ] 北海道出身。札幌の名店「モリエール」や由布院温泉「玉の湯」で修業。料理家、随筆家の辰巳芳子の内弟子となりスープ教室を支える。「辰巳芳子スープ教室オンライン」等で主任講師を務める。

辰巳芳子『あなたのために いのちを支えるスープ』(文化出版局、2002年)
まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。

