【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第62回◎三山喬 「保守合同」への源流③

鳩山一郎(1883~1959) 写真提供=共同通信イメージズ 

 サンフランシスコ講和条約の締結(1951年9月)から翌年の条約発効に至る前後の時期、公職追放になっていた国会議員は段階的に追放を解除されていった。鳩山一郎も51年8月の解除対象者になったのだが、その直前の6月、側近の政治家たちと政界復帰後の方針を相談する会合中、脳溢血で倒れてしまう。 このため腹案のひとつだった新党結成は断念せざるを得ず、療養生活を送りながら自由党に復党。吉田茂は総理総裁の座を鳩山に譲る姿勢をまるで見せず、これ以降、鳩山は政界の「反吉田勢力」の旗頭的存在になっていった。 

 本稿は、2021年刊行の『鳩山一郎とその時代』(増田弘・中島政希監修)に事実関係のデータを依拠しているが、この本の冒頭にはこう書かれている。 

 日本近現代の政治外交史における鳩山一郎の位置づけは、その死から六〇余年を経た今日でもなお不鮮明である。戦後の鳩山自身の政治行動や思想政策に焦点を当てた個別的研究は少なからず存在するものの(略)鳩山派ならびに〝鳩山路線〟と呼ぶべき政治的系譜をも包摂する総合的研究となると、皆無に等しい。 

 つまりこの本は鳩山一郎に関する初めての本格的な研究書なのだが、その監修者のひとり、中島政希は、石田博英(鳩山に近しい立場にいた後継首相・石橋湛山の側近)や田中秀征(元自民党・新党さきがけ衆議院議員、元経済企画庁長官)の政策担当秘書を経て、自身も民主党の衆議院議員を務めた政治史の研究者だ。 
 中島は、この本の終章に「鳩山一郎の政治的系譜」という文章を書いていて、鳩山の首相退陣後、鳩山派は河野一郎系と石橋湛山系に分裂し、河野の死後(1965年没)は中曽根康弘が河野の系譜を引き継いだと記している。 
 それにしても、保守合同によって自由民主党が結成され、その初代総裁となった鳩山一郎について、近年まで本格的な研究書ひとつ書かれなかったのはどういうことなのか。 

なぜ鳩山の流れは希薄なのか

 自民党と言えば「吉田学校」との異名を持つ一群の吉田茂系官僚出身者の中から、池田勇人や佐藤栄作らの総理が誕生し、その系譜は宏池会として「保守本流」とも呼ばれるようになる。一方で、これに対抗するタカ派的な勢力は清和会として、近年は森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫など、次々と首相を出し続ける。そしてこの清和会の〝始祖〟と認識されるのは、自民党3代目の総裁で首相だった岸信介だ。 

 前掲書で中島は、中曽根康弘は首相引退後、「年古(ふ)るごとに、自らを吉田茂に対抗して自主独立路線を唱えた鳩山政治の継承者であったと語ることが多くなった」と記している。 
 しかし、そんな主要政治家は中曽根くらいのものであり、とくに平成以後、鳩山一郎の名が政界関係者に言及されるのは、民主党政権を担った鳩山友紀夫とその弟の自民党衆議院議員・鳩山邦夫というふたりの孫が話題になるときくらいだ。 

「(鳩山一郎政権が)短命に終わったことも大きいでしょう(在任期間は約2年)。(後継の)石橋政権もそうでした(約2ヵ月)。それからあと、岸信介は違うけど、池田、佐藤と60年代は吉田系の政権が長かった。鳩山の側近だった河野一郎が首相になれずに終わったことも、鳩山の流れが見えなくなった理由だと思います」 
 改めて中島本人に尋ねると、そんなふうに解説してくれた。 
 中曽根がどんな理由から鳩山を評価していたか、中島は前掲書の文章で、本人の述懐を引く形でこう説明する。 

「鳩山内閣というのは、非常に短命だったため、歴史的な存在感が割合希薄かもしれません。しかし私は長い間、それは間違いだと言ってきました。なぜならば鳩山さんは占領政策を転換して、独立日本へと前進させようという意識をもって、ある程度の路線も示しえた政治家」であり、「(鳩山一郎が主張した)憲法改正というものは内政上の自主独立路線であり、日ソ交渉というのは、外交上の自主独立路線なのです」

 ちなみにこの文章では昭和30年代の中曽根について、鳩山同様の対米自立論者であり修正資本主義者を標榜し、日中国交正常化の推進論者でもあったと解説する。ただし、彼の主義主張は時代ごとに激しく変化を見せ、1970年代末期からは新自由主義に考えをシフトさせ、防衛政策に関しては、当選1、2回のころは「護憲・絶対平和主義・中立堅持」だったのに、朝鮮戦争を経て「改憲・再軍備」論者となり、その後も「自主防衛・駐留なき安保」などと主張を変えていったのだと説明する。 
 私自身が記憶する宰相時代の中曽根(在任期間1982~87年)は、日本列島を西側諸国の「不沈空母」に見立てる発言が騒ぎとなり、タカ派的なイメージが強かったが、元々の中曽根派はむしろ党内左派的なグループで、70年代以降にタカ派的な議員が次々はいって来て変質したらしい。 

鳩山一郎の時代について語る中島政希氏

従属か自立か

 ともあれ、少しずつ文献や資料を読む中で、私なりに理解した昭和20年代の保守本流グループ(吉田派)と、これと対立した鳩山派でぶつかり合う論点は、前者が再軍備による過重負担を避けるため軽武装・対米従属路線をとったのに対し、反吉田派のスタンスは、対米自立・自主外交のために憲法改正と重武装化を目指すという違いだった。 

 ただし、同時代の雑誌報道は吉田 vs 鳩山の対立を、首相の座を返すか返さないか、という恩讐の物語と見る傾向が強く、追放解除に始まる3年間の攻防は人事や政局の側面から語られて、上記のような路線対立そのものはどの程度国民の関心事だったのか、正直なところわかりづらい。 
 そもそも、鳩山たちの対米自立論は米国の占領政策そのものへの不満がベースにあり、さらにその根底には恣意的な判断で公職追放を強いられた個人的な怨恨もあったのではないか、そんなふうにも想像は広がる。 
 中島に尋ねると、そんな解釈も否定はしなかったが、何よりも公職追放そのものが戦時中翼賛政治に抗った鳩山ら戦前派の自由主義者を根こそぎ放逐し、官僚出身者だらけの戦後派を残す形になったことが、両者の対立の出発点だという。 

日ロ国交回復50周年にロシア21世紀委員会から寄贈された鳩山一郎像=東京都文京区、鳩山会館

 3代目の自民党政権・岸内閣のあと、自民党の路線対立は見えなくなり、吉田派が固執した「対米従属・軽武装」のスタンスから「軽武装」はいつしか取り除かれ、鳩山派の「自主外交・改憲・重武装」路線からは「自主外交」の部分が消え去った。そして今日まで続いている「日米同盟強化のための重武装・改憲」という流れになるのである。 
 中島もそうした状況から「私個人は冷戦後の改憲論に同意できない」としているが、昭和20~30年代に鳩山らが目指した改憲論はポジティブに受け止めて、もし公職追放がなかったら、日本でも旧西ドイツのような再軍備が可能ではなかったか、という思いを抱くという。 
 米・英・仏・ソ4ヵ国による分割統治として始まったドイツの占領期は1949年、ソ連占領地区とそれ以外に分断され、東ドイツと西ドイツというふたつの国が誕生する。両国が独立を回復するのは55年。49年から西ドイツの初代首相としてそこに至る道を率いたのは、ワイマール共和国時代からのベテラン政治家アデナウアーだった。 
 4ヵ国それぞれの思惑が入り組んで複雑な交渉となった道筋だが、アデナウアーは忍耐強い説得で再軍備と主権回復を同時に実現したのだった。 
「日本と同じように、西ドイツでも野党は再軍備に反対でした。でもアデナウアーはそれを根気よく説得した。日本でも、戦前からの老練な政治家が追放されないでアメリカや野党と交渉を重ねたら、似たような形にできたかもしれない。少なくとも、その後現在まで続く改憲問題は、あの時代に決着していた可能性があると思うのです」 

 中島は自主外交路線に関しても、鳩山ら党人派政治家に見られる柔軟性の表れだと感じている。鳩山も吉田も戦前からの自由主義者であり、反共思想の持ち主であることも変わりはない。しかし、ふたりにはやはり、党人派の政治家か元官僚かという違いがあり、それぞれの周囲に党人派、官僚出身者が集まった点に特徴が出ているという。 
「官僚出身者はどうしてもイデオロギー的な枠組みの中でモノを考える傾向が強い。たとえば鳩山政権の対ソ外交も『容共だ』と批判したわけですが、鳩山本人は共産主義を徹底して批判した。でも、好きでも嫌いでも隣国に共産国が存在することに変りはない。だったらいかに摩擦を減らしてやっていくか、それには外交努力しかないという考え方なのです。官僚出身の人たちは共産主義国と融和的になると、日本国内の共産主義者が勢いづき、国家転覆につながる恐れがある。そんな考え方に囚われてしまうのです」 

 そしてもうひとつ、鳩山を対ソ外交に突き動かしたのは、シベリア抑留問題の解決に強い思いを抱いていたためだという。 
「鳩山さんは人情派でしたから、シベリアでばたばた日本人が死んでいる。そんな状況を放ってはおけないという思いがあったのです」 
 鳩山の追放解除から約一年後、52年8月の総選挙で鳩山ら多くの追放解除議員が衆議院議員に返り咲く。この選挙では、同じ自由党でありながら吉田派と鳩山派が別々に選挙本部を構える異様な光景が見られたという。 首相の座に執着する吉田のスタイルは、鳩山が立ち上げた保守政党内にやがて深刻な軋轢をつくり出してゆく。 

昭和20年代から30年代初めにかけての主な首相。幣原喜重郎(第44代)、吉田茂(第45、48、49、50、51代)、片山哲(第46代)、芦田均(第47代)、鳩山一郎(第52、53、54代)、石橋湛山(第55代)。写真提供=共同通信イメージズ 

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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