講評
◎は作品掲載ありの佳作、●は掲載なしの佳作、〇は選外佳作、それ以外は作品の投稿順に掲載しています。
◎「ぱるこ」光枝ういろ
三連目「木霊」という重たい漢字が詩の中で良い緩急を生み出している。軽やかさを通り越して軽薄にも見えるが、蛍光灯の影のような気配が作品世界の裏地にあって、実は重厚感がある。この書き手の作品は一度読むと不思議と忘れがたい。
◎「身分証明」森林みどり
神秘性がこの作品に濁りのような効果を与えて、奥まで見通すことができない。その謎が心地いい。「レモン」というモチーフを置いているが、もっとわかりやすいくらい象徴的な事物をおいた方が、直感にアクセスする作品になるかもしれない。「ずぶぬれよ」という「私」の女言葉が古風に浮いているようにも感じたので、ここも再検討の余地がある。
◎「Coat hanging on the wall」あらいれいか
一連目を回収する四連目が特にあざやか。不思議な模様が連なり、やがてテキスト(布)として結実する魔法をみるような魅力がある。私はなぜか「アットホームな職場です」という詩句にやたらと惹かれ、ここが記憶という箪笥に残るハンガーの引っかかりじみた箇所になりそうだ。
◎「double」落下宙
単なるコラージュではなく、オブジェになっている。詩を語る理知的な声と、「ぼく」ののんびりとした声のギャップも面白い。「もっと後だよ」は「よ」を置かない方が甘くなりすぎない。また「へえ、いいね」よりも「へー、いいね」くらいの方が、その声のギャップをわかりやすく伝えることができるかもしれないと思ったが、あくまで筆者の判断が重要だ。
◎「Mojo dancing」いなつき きゅー
情をうたいながらも流されず、誠実に自身の発見・気づき・悟りを作品にこめている。「カフェオレ」「パティ・スミス」が古風に感じられてこの作品では浮いて見える。「古風」とは、どこかで見たことがあるような感覚を読者に与えてしまうことだ。自分自身の言葉を誠実につづろうとしているのが伝わってくる分もったいない。『現代詩手帖』など別の投稿欄に送ることがあるならここは再検討してみてもいいかもしれない。
◎「光ってるみたいだわ」大庭颯隼
「いたまない」「ひかる」「みえて」といった言葉遊びによって、ダブルミーニングになっている。「子猫」「母猫」ですこし甘くなりすぎる。甘くて苦いくらいの味付けの方が、筆者の良さが立つような気がした。空想から言葉を遊ばせるというより、言葉から空想が膨らんでいくような気配がある。
●「どこにでもいてね」浅浦藻
短い詩だが、確かな実感がこもっていることが伝わってくる。そのために忘れがたい印象を読み手に残す。感情から生まれた作品だが、作品としてより洗練させるために、冷徹な描写をスパイスとしていれるといい。尾形亀之助作品が良い参考になる。
●「夏壁」三明十種
「八月六日」という言葉から原爆のイメージを想起させられ、「だから」という接続詞が自然になる。夏を過ぎ去っていくもの、消えていくものととらえず、「壁」と置いているところに新鮮さを感じた。典型的な現代詩というより「うた」の気配が強い詩で、やわらかな読後感がある。
●「梅雨」井上正行
美意識が発揮されている。炭酸の気泡と雨粒、風鈴という透明な粒が自然なかたちで重ねられていく。一方で、それぞれのモチーフの生々しさのようなものがほしいと感じた。美を描きたいという信念を感じ、筆者が「美しい」と感じるものの幅を広げれば、自然と詩の幅が広がっていく書き手だと思った。
●「Vero」井上晃輔
わざとかもしれないが、筆者が抱えている世界に対して、口調があっていないような感じがある。いっそ、岸田将幸の散文詩のような成熟した語り口の方が、筆者の世界をより緻密に描き出す気がした。詩に込められた思考は素晴らしいので、別の口調で語り直して、『現代詩手帖』などの投稿欄に送ってみてはどうだろうか。
○「三角州」福富ぶぶ
他の投稿欄に出し直すこともあるかもしれないと思ったのであえて引用しないが、女という性に課せられた社会全体の無意識の期待のようなものを鋭く描いていて、私自身この詩を読んで発見があった。「三角州」というモチーフがなにを象徴しているのか、描写として書き込むとより思考が行き届いて洗練される。
○「返事は、」こはく
愛を囁く甘い情景を描いているが、言葉が筆者の身体とうまく接地していて、実感がこもり、甘くなりすぎていない。借り物の言葉ではなく、自分の言葉でつづっているために、独自の世界がたちあがっている。石川啄木『食うべき詩』は筆者にとって良い読み物になるかもしれない。
○「あじさゐの肉」岩本遥
「喉の奥からあふれ出」る「あじさゐのつぼみ」とは膿栓なのかもしれない。紫陽花というわかりやすく美しいモチーフを、病の象徴として描き出す技を感じる。「いつまでも」あふれて止まらない「あじさゐ」は、三連目の「白雨」とも呼応している。
○「ジオラマ」あられ工場
人を覗き見ていた主人公もまた、何者かから覗き見られている。何重もの「ジオラマ」の箱のへりを感じる。「じっと」「そっと」「こっち」といった促音がこの作品をすこし間延びさせた印象にみせてしまっている感じもあるが、この書き手の日常描写の生々しさは卓越している。
○「レコード」雪代明希
終わり方が鋭く、朝の涼やかさのような心地よい読後感が残る。「レコード」と陽の光といった黒と白の対比を、絵筆を重ねるように繊細に書き重ねている。心象描写が美麗であり、ここに生々しい情景描写を裏地として書き込めばより独自の世界が立ち上がる。
○「宇宙の終わらせ方」長澤沙也加
日常の景色を描きながらも、「宇宙の終わらせ方」という重たい言葉が、この日がまるで地球最後の日であるかのような空気を言外に漂わせている。詩の主人公はある種の絶望を抱いているが、言葉に独特のまろやかさがあり読み手をいたずらに傷つけない。日常に絶望するほど日常を真剣に愛する、筆者の感性があらわれている。
○「蒼枯という本屋の畔にケバブ屋があり」緒方水花里
外部からの刺激を受けた詩人が詩を書く。詩は「詩人」のまわりで起こる波紋のようだ。その波紋はまた誰かの刺激になる。榎本櫻湖の作品からは水槽のイメージを想起するが、この書き手の作品からは満天の星を想起する。どちらもある種の夥しさがある。たたみかけるようなまばゆいモチーフが、肉体を想起させるのが不思議だった。
○「雨降り」村口宜史
「まるうて」つやつやしていて、触れると怪我をしてしまうという謎の存在。鏡といった無機物をまずイメージしたが、いきもの、または妖怪のような気配も感じる。終わり方も面白い。「私」を押し留めている関西弁の声は不気味だが、可笑しさもあり、いい緩急がある。
○「夜明けの歌」アリサカ・ユキ
筆者の声と、詩の語り手の声が一つに聞こえる。筆者と詩の語り手を安易にイコールで結びつけることはしたくないが、この書き手の作品にはそうした特徴がある。声に白磁のような響きがあるため、ギリシャ神話のモチーフはかえって調和しすぎているような感も起こる。美術館に置かれたギリシャ彫刻のような。ギリシャ神話を用いずとも、筆者の詩にはすでに神話のような神聖さが宿っている気もする。
◯「あわいにしずむ」三波 並
「平熱」の詩行が特に光る。「わたし」として詩をうたいながら、最後に「ゆくのであった」とカメラが離れていく感じが独特だ。詩人・尾形亀之助の書き方と通じる部分がある。発想がまさに足下に広がる「砂」粒のようにきらめき広がっているが、一つ焦点を絞る箇所があると緩急がついてより洗練される。
○「閑話」浪市すいか
「架空」と「匿う」、「栄光」と「絶望」など音を意識しており、声に出してみると独特のリズムもある。「うた」を意識して書いていることが伝わってくる。一方で終わり方が鋭く、この書き手は情景描写を意識すればより洗練されるだろうと思った。
○「葬儀のあと」まつりぺきん
「葬儀」「ゴリラ」の黒と「白」の対比。「ゴリラ」は死の象徴かと思いきや、最後「白」が彼の背中に重なる瞬間に救いを感じた。「ゴリラ」の登場シーンは、当初変質者の象徴なのではないかと身構えた。「ゴリラ」と対峙するのは「一番小さな女の子」ではない方がわかりやすくなるかもしれない。または「ゴリラ」の動物感をもっと書き込むといい。
「未来」中明和聖
筆者が描いている「寂しさ」は不幸ばかりではなく、美しさも含んでいる。種田山頭火の「さみしさ」に通じるものを感じた。確かな美的感覚を持っているので、表現の幅をもっと広げられたらいい。たとえば「きみがくれた物語」の内容を読み手に考えさせるのではなく、自分自身がもつ答えをそこで提示することができれば、自分にしか書けない詩を書くことができる。
「(隣の芝生は)」多賀嶋
「いちめんのなのはな」で始まる山村暮鳥「風景 純銀もざいく」の書き方を想起したが、この書き手は陸・海・空をカバーしており、「いちめんのなのはな」が描く世界が「面」であるのに対して、こちらの作品が描く世界は球状である。この場所にいる私ではなく、地球という惑星に置かれた私という世界観を感じて面白い。素朴だが言葉が流れておらず、短い言葉にも力がある。
「かえる」西村トキ
帰り際に「カエル」になる、というシャレも効いている。ストーリーがあるが、小説ではなく詩だと感じるのは詩型からではなく、言葉の強さからだ。しかしやや説明的でもったいない。映画を撮るように描くシーンをあらかじめ意識しておいて、そのシーンを説明するのではなく描写するといい。
「食材の男」吉岡幸一
『悪魔のいけにえ』のようなフィジカルホラーを筆者は作り出そうとしているが、不思議とその情景は漫画チックである。人の体が大根のように切れていくような。または筆者はホラーというよりも、理不尽さについて描こうとしているのかもしれない。
「小さな海」山河恩子
波、海、魚といったモチーフをただ置くのではなく、それらに対する筆者の温かな眼差しを感じる。「わたしの海」は哀しみに満ちているが、一方で語り手にとって故郷のように大切な場所であるようにも感じる。「ちゃぷちゃぷ」といった既存のオノマトペを使わず、本当に自分の耳に聴こえている音で表現するとより独自の世界がたちあがる。
「帰還」古倉凪紗
洗濯物に自分自身を託しているようにも読めるし、語り手が「洗濯物」と呼んでいるのは本当に「肺」を持つ誰かの肉体なのかもしれない。面白い発想で書かれた作品だと思うので、最後の「個体へ」は「個体に還る」(タイトルからそう繋がると考えた)などと明示して、音の調子よりも直感的に筆者の意図が伝わるのを優先した方がいいかもしれない。
「片腕」川越敏司
物語詩を筆者は志向している感じが伝わってくる。伊藤比呂美『河原荒草』は筆者にとって良い参考になる。グロテスクな内容ではあるが、言葉に独特の上品さがあるために目を背けたくなるものにはならない。物語詩を書くときには、説明するのではなく描写するといい。映画を撮るような気持ちであらかじめシーンを固めておいてから、それを描写していくのだ。
「鼻歌」桜庭紀子
予想もしなかった着地点で面白かった。「小柄な」女がラッパを吹いている、という情景には突飛さも感じたが、書き手の個性がここに表れているのかもしれない。やや説明的であるというところをクリアすれば、より洗練される。物語のある詩を書くときには、映画を撮る時のようにある程度絵コンテのようなものを固めておいて、それを説明するのではなく丁寧に描写して連ねていけば説明的になりすぎない。
「やまばと」各務あゆみ
ただの「鳩」ではなく、「やまばと」であるところが面白い。そのぶん映像が緻密になり、緑の美しい庭の様子や家のまわりの景色まで見えてくるようだった。二連目で終えず、あえて三連目でふたたび「あなた」と「わたし」の情景を付け加えたことで、この作品は直線ではなくハート型で終わっている。
「透明」春元彩歌
透き通る「レース」、「硝子」、淡い色合いの「空」など、丁寧に「透明」を重ねていく。それらは少しずつ色を含んでいて、最後にはまさに「夕凪」を思わせる色合いになる。日常の美を掬い取っていく中で、二連目の「昆布のにおい」が独特で面白く感じた。ここに筆者の個性があらわれているような気もした。
「三毛の喪服」花山徳康
三連目が特に光っている。横尾忠則の世界観を思わせる。あえて思考を手放し悟りの境地を得ようとしている。モチーフの一つ一つが独特で惹きつける分、回収されないモチーフにさびしさも残ったことをせっかくなので伝えておく。筆者の書き方と対極にあるのは名端みちる詩集『鳥と追う八月』。面白い出会いになるかもしれない。
講評を終えて
詩と小説の境界について議論になるとき、私は「小説は説明するが、詩には説明の筋肉が働いていない」という主張をいまはもっている。物語のある詩など、どうしても説明的になってしまう時には、説明ではなく描写する、ということを意識するといい。映画を撮る時のようにある程度絵コンテをかためておいて、そのシーンを描写していくのだ。詩人・尾形亀之助は、詩を書くとき映画の手法を意識していたと私は考えている。(マーサ)

1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。
