さみしさ、と、しぶとさ
2020年発表の表題作と、1997年発表の「秒速10センチの越冬」、二篇の小説が収録されている。作者のデビュー作でもある後者は、2000年に上京し、やっとこさ採用されたコンビニで夜勤を始めた頃の私にとって、バイブル的な労働小説だった。
主人公の「おれ」(田中正一)が、大量の書籍を仕分けて配送する取次センターのアルバイトに就き、秒速10センチで流れるコンベヤーベルトに翻弄されつつ冬を越す。おおよそ、それだけのストーリーだが、職探しの道のり、職場での待遇、そして何より、心身が疲弊するバイト生活のしんどさが事細かに語られており、ひーこら働いていた私の心をしっかと捉えた。
《おれは週に一度か二度、早起きしてコンビニで就職情報誌を買ってきては履歴書を送った。》 ←そうそう、急がないと早々に求人を締め切られることがある。
《勤務時間――朝8時半から夕方5時(残業あり)/日給――六八〇〇円(当日五〇〇〇円迄)》 ←休憩1時間25分なので時給960円ほど。当時の昼勤務の時給としては高めだが、ほぼ週六の皆勤手当を含んでの金額ってのが、えげつない。
《電車に乗るとたまたま空いていた座席にぐったりと座った。疲れていた。これなら、今にも倒れそうな年寄りが目の前に立っても平気で寝たフリができると思った。》 ←初出勤の帰り道。普段使わない部分の脳と筋肉を酷使してクタクタになるのよね。
《無情なほどゆるやかに流れるラインのほとりに立っておれは、ふと上を見上げた。その時おれは自分自身を見下ろすことができた。(中略)純粋に上方からの視線であるおれは、おれ自身に向かって問うていた。「おい、おまえはそんなところで何をしてるんだ?」と。》 ←こういうことも多々あった。
ルーティンワークの描写も、これを読めば即日、現場で働けそうに思えるくらい、きめ細かい。そして綱渡りのような毎日の折々で、「おれ」は自分をこき使う世界に対し、ネクタイを外して証明写真を撮ってみたり、多少破損した本の配送先をマイルールで選り分けたりと、ささやかな抵抗を試みる。そのファイティングポーズ、かくありたく思い、右手に『秒速10センチ』を(左手にやはり闘う労働小説だった阿部和重『アメリカの夜』を)握りしめたつもりで、私はコンビニのレジに立っていた。
あれから約四半世紀。私は十数年前にコンビニを辞め、今は主に非常勤講師で口を糊している。一方、岡崎作品の主人公は、純なフリーター生活を続けていた。
時給1030円の製麺工場で働く五十歳手前の「俺」は、失踪宣告で死者となった叔父の遺産として、一枚の白い皿をもらい受ける。その皿は特殊な能力を備えており、皿から水をかけると、かつて自分が買ったものが購入時の現金に変わるのだった。「俺」は職を辞し、部屋の様々なものを現金化してゆく。その末に……。といった、ファンタジー色の濃い一篇が表題作「キャッシュとディッシュ」である。
本書収録の「解説」で、倉本さおりは表題作を「この世でいちばん『さみしい小説』」と紹介している。なるほど、本作を文芸誌掲載時(『文學界』2020年8月号)に読み、私は何とも言えない気持ちになったが、それはきっと、さみしくなったのだろう。
ただ私が覚えたのは、倉本のいう、ガラクタだって宝物的な、個別の「生きた時間の痕跡」が消えゆく「さみしさ」とはちょっと違う。質屋やメルカリ要らずの魔法の皿に関しては率直に便利に思えるし、本作の結末も、自分がそうなるのは嫌だけど、生前整理の数ある形の一つとして、わからなくはない。そう感じてしまうほどに、つまりは人生の重心が〝就活〟から〝終活〟に傾くほどに、岡崎作品の主人公も、私も、老いたなあ、という点に、さみしさがある。
これといった抵抗もないまま「俺」が結末を受け入れるのも、さみしさに拍車をかける。「秒速10センチ」の「おれ」と「キャッシュとディッシュ」の「俺」とは、もちろん同一人物でないが、並べて読むと、若き日の「おれ」なら結末を迎えるまでに、世界に対してジャブを何発も浴びせていたろうに、と遠い目にもなる。
とはいえ、急ぎ付け加えると、老いてなおファイティングポーズを取る小説に、同作者の「パーミション」(『文學界』2022年2月号)がある。冷蔵倉庫で働く五十代の「俺」の冴えない日々を描く作品のラスト、「俺」は「秒速10センチ」を彷彿とさせる、実にささやかな抵抗をかます。四半世紀を経ても変わらない〝しぶとさ〟に胸打たれる。
「秒速10センチ」の「おれ」も言っていた。「ハハ。だが老いぼれはいつでもしぶといものだ」と。さみしさ、と、しぶとさ。老いの二面を味わうべく、本書を読んだ方は「パーミション」(日本文藝家協会『文学2023』所収)にも、手をのばして欲しい。


さとう・やすとも 1978年生まれ。名古屋大学卒業。文芸評論家。 2003年 、「『奇蹟』の一角」で第46回 群像新人文学賞評論部門受賞。その後、各誌に評論やエッセイを執筆。『月刊望星』にも多くの文学的エッセイを寄稿した。新刊紹介のレギュラー評者。
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