【BOOKS】永井明彦 作・絵『タネリとオホーツクの風――宮沢賢治「サガレンと八月」の続編』◎松永裕衣子

賢治に読ませたい「続きの物語」

 1923年の夏、26歳の宮沢賢治は樺太(古表記ではサガレン)を旅した。生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』中の多くの重要な作品が、この旅の途上でスケッチされたものとされる。同詩集の七章「オホーク挽歌」収録の「樺太鉄道」もそのひとつである。 

  たしかに日はいま羊毛の雲にはいらうとして 
  サガレンの八月のすきとほつた空気を 
  やうやく葡萄の果汁[マスト]のやうに 
  またフレップスのやうに甘くはつかうさせるのだ 
            (「樺太鉄道」第二連より) 

 北国の夏の清らかな美しさをうたった、上記の詩群と並行する形で生まれたのが未完の小品「サガレンと八月」だった。賢治が冒頭部分のみ書いて中断し、以降書き継ぐことのなかった童話の断片。アイヌの少年タネリが母親の言いつけを守らなかったために、ギリヤークの犬神にさらわれて蟹の姿に変えられ、病気のチョウザメの下男となったところで、物語はぷっつりと途切れている。ファンタジーとして構想された童話の続きを、賢治はなぜ書かなかったのか。物語の意味や結末については、長年にわたり識者や愛好家たちによってさまざまに取り沙汰されてきた。 

 本書はそうした議論とは一歩距離をおき、まったく別の形で示される「続きの物語」である。著者の永井氏は、あとがきでこんなふうに述べている。〈この続編は、賢治の書かなかった部分を客観的に推測しようとしたものではありません。(中略)これは私の全責任の下で発展させた勝手な創作物語です〉と。 
 氏の『タネリとオホーツクの風』では、主人公の少年は海の生きものたちとの交流から多くを学び、母親のもとへ戻る。そして本編のプロローグに登場した農林学校の助手である「私」が、砂浜で波や十字狐と会話を交わすエピローグで幕を閉じる。こうして形式的には続編としての性格を保ちつつ、細部をあえて本編とは変えている点がユニークだ。 

 たとえば、本編でタネリの一人称は「おいら」だったのが、続編ではほぼ「おら」となり、もともと「大きな一ぴきの蟹」に変身させられたはずのタネリが、続編では幼い小ガニになっている。これは賢治の物語ではありませんよと、控えめに読者に注意を促しているかのようだ。 
 一方、海へ穴石を拾いに行ったはずのタネリが、母親から「一日砂浜で寝ていて、穴石忘れてくるやつがあるもんか」とあきれられる続編末尾のシーンは、「仕事に藤蔓嚙みに行って、無くしてくるものあるんだか」と母親に怒られる賢治の童話『タネリはたしかにいちにち嚙んでいたようだった』と符合する。また、殺生の罪をテーマとする点は『よだかの星』等を、小ガニや海中の描写は『やまなし』の蟹の兄弟を想起させる。 

 折しも今年は賢治の生誕130年にあたり、多くの出版やイベントが企画された。賢治のメッセージを自身の課題として受け止め、絶望と希望、幻想と現実が交錯するストーリーを引き継いで〈賢治の発想や問題意識を発酵させ、成長させようとした〉本書もまた、詩人の作品世界の豊かさと懐の深さを示すものとなっている。 
 生きることの歓びや哀しみ、残酷さ……。その本質を人々の心に響く独自の表現で紡ぎ出した、孤高の詩人。仏教に深く傾倒し、高い理想を胸に抱きながら教育者・技師として生き、若くして逝った永遠に未完の作家。賢治は「不思議な」とか「謎」といった常套句を超えて、あまりに多面的な存在として生き続けている。 

『タネリとオホーツクの風――宮沢賢治「サガレンと八月」の続編』 

永井明彦作・絵 
銀の鈴社 1980円(税込) 

著者略歴

永井明彦[ながい・あきひこ]  1958年生まれ。神奈川県の県立高校の国語教員として定年まで勤務。15歳から登山を始め、在職したほとんどの学校で山岳部の顧問を務めた。在職中の55歳から物語を書き始める。現在は高校で外国人の子どもたちに日本語を教えながら、ときどき創作をしている。著書に『石の中の宇宙』(銀の鈴社)。 

松永裕衣子
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別冊太陽『宮沢賢治 詩の世界――心象スケッチを旅する』(平凡社、2026年5月) 
生前に刊行された唯一の詩集である『春と修羅』を中心に35篇を紹介。別冊太陽の賢治特集は4回目となる。 

まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。

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