「地獄のような下描き」から生まれた絵本づくり
林明子さんの代表作のひとつ『こんとあき』が出版されたのは1989年、林さんが44歳の時のことだった。キツネのぬいぐるみのこんと小さな女の子あきが、祖母の住む「さきゅうまち」をめざして旅をする物語は、人気絵本のランキングでいまもトップ10に入るロングセラーとなっている。
表紙には、駅のホームに立つふたりの姿がクローズアップで描かれる。ほのぼのとした、素朴で懐かしい雰囲気の漂う絵に、タイトルは大胆な緑・赤・青の原色の極太ゴシック文字。すでに10以上の言語で翻訳出版されているというが、いったい、この本のどこがそんなに特別なのだろう? 絵本作家としての林さんの作品に一度もふれたことのなかった私は、はじめてこの表紙を見た時に思った。
そんなうっかり者の私の目を一瞬にして覚まさせたのが、林さんの盟友である五味太郎さんのことばだった。〈林明子の絵は、スペシャルなうまさだなと思う。表紙の鞄のふくらみと、鞄を持つあきの手つき、これだけでただ者じゃないぜ〉。見る人が見れば、そんなことまで分かるのか……。〈女の子が急いでわあっと荷物を入れた鞄の重さを感じさせる、腕の曲がり方なんだ〉(本書収録インタビュー「愛読している人」より)。
そう言われてよく見ると、なるほどこれから旅に出るふたりの状況がよりはっきり見えてくる。主人公たちの動きや表情だけでなく、後ろに佇む老夫婦や向かいのホームに立つ多様な人々など、背景がじつにこまやかに描きこまれていて、一つとして意味のないものはない。
五味さんや担当編集者が述懐するように、林さんは徹底的に写真を撮り、取材する人だった。最初の物語絵本『はじめてのおつかい』の編集者だった柴田晋吾さんは、林さんの取材姿勢には凄まじいものがあり、日々の取材の結果スケッチと写真が山のように蓄えられていった、と当時の思い出を振り返る。読者が絵を見た瞬間、本人すら忘れていた過去の懐かしい記憶を思い出したり、確かに子どもってこんなしぐさをする、かわいいなと思ったりするのには、ちゃんとした理由があったのだ。
ある瞬間を切り取ったシーンが、目には見えないそれまでのたくさんの時間を物語るように、林さんの作品には読めば読むほど味わいが増すものが多い。いや、おとなが注意深く読まなければ気づかないことも、何でもよく観察する子どもたちはすでによくわかっているのかもしれない。
絵本づくりの思い出について、林さんは「地獄のような下描き」と本書末尾のエッセイで語っている。それが具体的にどのような作業なのかは、『はじめてのおつかい』の制作過程を紹介した「限りない試行錯誤――ラフの変遷」の項を読むとよくわかる。臨場感を出すための数々の編集上のアイディアや、主人公の女の子が家に向かって駆け出す方向の調整(ページの展開があるため、左から右へ)、さらには街の掲示板の貼り紙一枚一枚まで、絵本づくりの苦労と工夫の一端を窺い知ることができ、とりわけ興味深い。
今年7月、福音館書店のホームページで林さんの急逝が報じられ、4月に出た本書は期せずして彼女の仕事をまとめた最後の本となった。B5変型の大判の紙面をたっぷり使って画業がていねいに紹介され、主要作品の書影つきで詳細な年譜も収録されている。
絵本デビューとなった『かみひこうき』(1973)から、実物モデルを立てて描き始めた『あさえとちいさいいもうと』、黒インクのみで描いた『北海道の牧場で』(いずれも1979)、有名な『魔女の宅急便』(1985)、はじめての赤ちゃん絵本『おつきさまこんばんは』(1986)、切り絵によるはじめての絵本『でてこい でてこい』(1998)、夫の征矢清の文に絵をつけた『ひよこさん』(2013)……。同じ人が描いたとは思えないほどさまざまな画風の作品があり、この一冊でゆたかな作品世界を一望できる。

福音館書店編集部 編
福音館書店 2640円(税込)
林明子[はやし・あきこ] 1945年、東京に生まれる。横浜国立大学教育学部美術科卒業。絵本に『こんとあき』『はじめてのおつかい』『おでかけのまえに』『でてこい でてこい』『きょうはなんのひ?』(絵本にっぽん賞)『おふろだいすき』(サンケイ児童出版文化賞美術賞)『はっぱのおうち』『ぼくのぱん わたしのぱん』「くつくつあるけのほん」全4冊(以上、福音館書店)などがある。

『こんとあき』(福音館書店)の特設サイト
https://www.fukuinkan.co.jp/kontoaki/
まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。

