【BOOKS】村上春樹 著『夏帆─The Tale of KAHO─』◎佐藤康智

足立区にいったい何があるというんですか?

 三年ぶりの長編小説である。書き下ろしではなく、文芸誌に連載されたものをまとめている点が、村上春樹の長編としては珍しい。女性が主人公というのも珍しい。 
 主人公の夏帆は二十六歳の絵本作家。埼玉県の浦和に暮らす父母のもとを離れ、東京都足立区花畑[はなはた]のアパートに住んでいる。最寄りは東武スカイツリーラインの竹ノ塚駅だ。 
 この設定も珍しい。村上作品の舞台となる東京の地名といえば、世田谷区とか港区とか新宿区とか渋谷区とか、つまりは東京の西の方にある、おしゃれな街が大半だったはずだが……。 
 下町的なイメージの濃い東京東部の足立区が、春樹ワールドにおいて、全く描かれてこなかった訳ではない。たとえば『騎士団長殺し』では、小菅の東京拘置所が話題にのぼっている。とはいえ、主要な舞台として登場するのは初めてだろう。 

 足立区、竹ノ塚駅、といったワードから私は、先代・三遊亭円丈の「悲しみは埼玉に向けて」を思い出した。足立区の北千住駅を経由し、埼玉方面へ延びる東武線に漂う垢抜けない悲哀を、自虐もこめて笑い飛ばす新作落語である(ちなみに私はこの落語を現代版『おくのほそ道』と解釈している。興味ある方は紙媒体だった頃の『望星』2022年11月号をお読みください)。 
 そういえば円丈は、高座で着物を脱ぎ、サモアの酋長になりきって演説する新作落語「パパラギ」も作っている。その元ネタである『パパラギ』は、村上春樹『街とその不確かな壁』で、印象的に触れられる書物でもあった。もしや春樹は円丈ファン?と想像し、少しわくわくした。 
 また本作には、やはり東京の東部に位置する葛飾区の、新小岩駅近くでレストランを営む、夏帆の叔父さんが登場する。彼の芝居がかった話し方に対し、夏帆が「叔父は『フーテンの寅さん』の真似をしているのではないか」と思うくだりにも驚いた。村上作品は映画への言及が多いが、あらかたは海外の映画作品であり、日本映画を引用することは滅多になかった(明里千章『村上春樹の映画記号学』に詳しい)。だから、日本の映画が出てきたこと、しかもシネフィル好みの洒脱な映画ではなく『男はつらいよ』だったことが、二重に意外だった。 
 とまあ、これまでとは違うぞ的な珍しさが節々から伝わる物語なのである。もっとも、舞台に関しては早々に、足立区から、春樹ワールドのホームというべき東京西部、武蔵境[むさしさかい]へと移ってしまう。「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません」という、ありくいの導きによって。 

 発端は、知人の仲介でデートをした初対面の男から、「君みたいな醜い相手は初めてだよ」と侮蔑されたことだった。「まるでありくいがその細長い舌の先で、シロアリの巣をきれいに舐め尽くすみたいに」、男が自分の心の動きを読んでいる、と夏帆は感じる。その後、ありくい夫婦の登場する絵本をものした夏帆のもとに、たびたび、ありくいの奥さんが現れるようになる。 
 彼女の導きで武蔵境に引っ越し、期せずして凶悪なジャガーを刺殺するミッションを果たした夏帆は、自分と母親との間にあった確執のようなものに、じわじわと思い及ぶ。最近の母は不倫を疑うほどに、服装が派手になっていた。ありくいの奥さんが言うには、夏帆のミッションが引き金となり、凶悪なシロアリの女王が、母の身体を乗っ取っているらしい。夏帆はシロアリの女王と戦うべく、母のもとへ向かう。新たな絵本の構想を練りながら──。 

 物語は、読む者を癒す力と、致死的な行為に向かわせる力とを併せ持つ。我々は「善き物語」と「悪しき物語」の間に、いかなる線を引くべきなのか。「悪しき物語」に抗する「善き物語」を、どう紡いでいけばよいのか。阪神・淡路大震災とオウム真理教事件の起きた1995年以来、村上春樹が抱え続けてきたテーマ(『約束された場所で』参照)を極めてストレートに導入した、物語論の実践編として面白く読んだ。物語上の何とも不思議な生き物に、めぐりめぐって助けられるという、宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」風の超自然的な流れが、作者の筆致にジャストフィットしている感じだ。 
 夏帆とシロアリの女王の対決については、〈象徴的な母親殺し〉を論じた中村雄二郎『魔女ランダ考』で紹介されるバリ島の仮面劇みたいな、ああでもないこうでもないといった、くどくどしい混戦を期待していたので、そっちの方に話が転ばなかったことに肩透かしの感が残った。のだが、それは「Tale」(作り話)の軽妙なバランスの方に注力した結果と考えれば、納得できなくもない。 
 それより何より、まるで判然としなかったのは、物語が進むにつれ忘れ去られる東京東部の謎だ。新小岩の叔父さんも終盤、お役御免となる。そもそも、なぜ夏帆は現実的に引っ越す必要があったのだろう。あるいは、どうして立ち退くべき場所として足立区が設定されたのか。足立区にいったい何があるというんですか? 

夏帆─The Tale of KAHO─

村上春樹   著  

新潮社 2860円(税込) 

佐藤康智

さとう・やすとも 1978年生まれ。名古屋大学卒業。文芸評論家。 2003年 、「『奇蹟』の一角」で第46回 群像新人文学賞評論部門受賞。その後、各誌に評論やエッセイを執筆。『月刊望星』にも多くの文学的エッセイを寄稿した。新刊紹介のレギュラー評者。

バックナンバー

バックナンバー一覧へ

この記事をSNSにシェア