【シリーズ】教育ってなんだ?――第13回 相馬 融さん/生物の授業は、子どもたちの「考える力」を伸ばす機会にあふれている

学校教育の科目の中には、ときに「将来、何の役に立つの?」と疑問視されるものがある。高校教育の生物は、そう思われがちな科目の一つかもしれない。しかし、自らが生き物であり、生態系と複雑にかかわり合って生活している以上、人間にとって生物学的知識は必要不可欠だ。長年、高校で生物を教えている相馬融さんに、生物教育の意義や広く教育そのもののあるべき姿について聞いた。

文系寄りに〝転んだ〟経験が理科教育に生きている

――最初に、相馬さんが教員という仕事に就いた経緯を教えていただけますか?

 要因はいろいろとあるのですが、かつて生徒として通っていた中高一貫校で六年間所属していた生物部の顧問の先生の存在が大きかったように思います。教育方針や指導法のバランスが非常に優れた方で、その恩師から高校を卒業する際に突然、「君は教員になりなさい」と言われたんです。当時は「進路を勝手に決めないでください」とお答えしたものの、なぜかその言葉がずっと心の中に残っていました。

 卒業後も生物部の合宿には手伝いとして参加し続けていて、後輩たちの面倒を見ているうちに、だんだんと「教員になるのもいいかもな」という気持ちが芽生えてきたように思います。

 ただ、大学では理系に入学したものの、専門課程では文化人類学や科学史、科学哲学といった学際領域の学問を学びました。もともと歴史が好きだったのと、自然科学の何でもクリアに割り切ろうとする側面に、教養課程の間にやや疑問を感じるようになっていたんです。ところが、当時の文化人類学は社会学系の研究者が中心で、今度は彼らの議論がどうにも主観的すぎるように思えてしまって、だんだん自然科学が懐かしくなり、結局、理科教育の大学院へ入り直し、教員の道へと進みました。
 
――相馬さんが著者の一人になっている『大人のための生物学の教科書』(講談社ブルーバックス)で文化人類学者のレヴィ=ストロースに触れられていたのには、そういう背景があったんですね。

 レヴィ=ストロースやジャン・ピアジェといった人たちが提唱した構造主義の考え方が好きなんです。レヴィ=ストロースは構造主義を使って膨大な神話を分析したわけですが、その手法は同じように膨大な多様性と情報量を有する生物の世界をうまく整理し、理解するための視点としても大変有効なんです。

 こうして一度文系寄りに〝転んだ〟経験は、私にとってはプラスになったと思います。理系が得意で、その道をまっしぐらに進んできた人たちに比べ、私は寄り道をしたぶん、理科が苦手な子どもたちの気持ちがわかるというか、寄り添えることが多いような気がしています。また、理科のどこが結局魅力的なのかということも、より明確に伝えられていると思います。

教育に影を落とす「受験」と「AI」

 大学院修了後は公立高校に勤めることになったのですが、いわゆる偏差値の高い学校から低い学校まで、様々な学校を経験しました。あまり使いたくない言葉ですが、俗に教育困難校と呼ばれるような学校では、家庭や社会の歪みに押し潰され、勉強どころではない生徒も大勢いました。彼らとの出会いは自分の教育の原点の一つになっています。

――生徒たちの状況に応じて、教える内容も変えていたのでしょうか。

 教えるべきことは、いつでもどこでも、ほとんど同じです。

 高校卒業後は学問と無縁になり、二度と生物について学ぶ機会のない生徒であっても、自分の健康とは一生向き合っていく必要がありますよね。その「健康」を理解するためには、体の仕組みに関する生物学的な知識が欠かせません。生活するうえで、ゴミの出し方やエネルギーの使い方が生態系にどう影響するかも、現代の市民には不可欠な視点です。「自分の体はどういう仕組みでできているのか」「人間という生物は生態系とどうかかわり合って生きているのか」。この二つを教えるのが、高校の生物教育の最も基本的な意義だと私は思っています。大学、大学院へと進学する生徒であってもそこは同じです。

 家族やペットの病気や、自分たちの体に直結するテーマは、いわゆる「学力」にかかわらず、どんな生徒の心にも引っかかるものです。たとえば「糖尿病になると、なぜ失明してしまうのか」という話をすると、いきなり「オレのじいちゃんが目が見えなくなった理由はそれか!」なんて言って、身を乗り出して食いついてくる生徒がいる。そうやって食いついてくれるのは、教員として本当にやりがいを感じます。

――あまり意識していませんでしたが、私たちの暮らしと生物学的な知識は切っても切れないものなんですね。

 子どもたちは本来、虫や犬や猫など、生き物に対して好奇心が旺盛ですし、体の不思議にも興味を持っています。ですから、こちらが一所懸命に面白い材料を提示すれば、一定数の生徒は確実に食いついてくるんですよ。高校の教員は本来、それぞれの専門科目の面白さを生徒に示し、「こっちの学問も面白いぞ!」と競い合いながら教えるべきだと思うのですが、残念ながら、あまりそうはなっていないのが現状です。

――そうした現状も踏まえて、いまの教育について懸念していることは?

 ここ十年以上強く感じているのは、理系の生徒たちの国語力の低下です。実験データを取る能力は高いものの、研究成果をまとめる段になると、うまく文章化できない生徒が多いんです。

 二・三年生になると理系では数学と理科が中心になり、国語や社会の授業が大幅に圧縮されることが一因だと思うのですが、これは結局、大学受験というシステムの弊害です。子どもたちの興味関心や基礎的な学力の習得状況に関係なく、とにかく受験に必要な科目の知識を詰め込もうとするから、こういうことが起こるのです。

 この弊害は文部科学省もよく理解していて、生徒自身が選んだテーマを追求して成果を発表する「課題研究」が十年ほど前から強く推奨されるようになりました。しかしこれも、大学側が「課題研究の成果を推薦入試で評価する」と言い出すと、一部の生徒や保護者は今度は「どうすれば受験に有利になるか?」と考え、その観点で課題研究のテーマを決めたりするという方向に変質してしまいます。

 いまの学校では小中高ともに「探究」という時間があるのですが、いざ自分でテーマを見つけなさいと言われると、なかなか見つけられない子どもが多いようです。すると周囲の大人が受験というゴールから逆算して「こんなテーマはどう?」と手助けしてしまうことすらあるようです。「探究」の趣旨は一体どこへ行ってしまったのでしょう。「良い学校に入ること」が、なぜここまで重視されるのか――。日本の学歴至上主義は単なる教育制度の問題というより、むしろ国民性にも関わる根深い問題ではないかと感じています。

 もう一つ強く懸念しているのが、AIの存在です。「課題研究」も、近いうちにAIの助けを借りてまとめてくる生徒が必ず出てくるでしょう。インターネット上の膨大な情報を学習し、その中から「もっとも標準的なもの」を提示してくるのがAIです。課題研究のように、生徒の個性を発揮させる活動との相性は、決して良いとは言えません。

 研究で重要なのは、試行錯誤して集めたデータをどう解釈するか悩みながらまとめていく、そのプロセスです。課題研究も、自分自身が興味を持って追求したことを、自ら考えてまとめ上げたという事実が、生徒の血肉になるんです。その考える過程をAIに丸投げしてしまえば、本人の内面には何も残らない。

 この先、何もかもがAI頼りになれば、自分の考えや気持ちすら言葉にできない子どもたちが増えてしまうのではないかと危惧しています。

子どもの考えを引き出すために重要な「考える訓練」とは

――「苛烈な学歴社会」や「子どもたちへのAIの普及」など、教育現場の課題は尽きませんが、これからの教育はどうなっていくと思われますか?

 以前、ある大学の先生の「教員は50年後にはAIに仕事を奪われる」「授業をするだけの教員はいらなくなる」といった発言が話題になりましたが、教育現場から教員が姿を消すことはないと思っています。

 教育の根幹は、「自分たちの文化をどう継承していくか」を社会全体で考えて、次の世代に伝えていく営みにあると私は思っています。文化の拠りどころとなる考え方や、文化の根っこを人から人へ伝えていくという営みは、AIにはやはり不可能な領域です。だからこそ、教員という仕事がなくなることは決してないと思うのです。

 そこで重要になるのが、「読む・聞く・書く・話す」の四つのいわゆる国語的技能です。脳の機能という点から見ても、この四つの技能はそれぞれ脳の異なる部位を使い、そこを活性化するわけで非常に重要です。ある意味、学校教育の基本をなすものだと私は考えています。

 生物の授業で、たとえば細胞分裂や生命の発生のプロセスを教えるときに、教科書にある写真や図版をコピーしてポンと渡すだけでは、生徒は理解できません。教員が丁寧に板書し、その内容を説明する。生徒はその板書を見て教員の話を聞きながらノートを取る。そして、教員の投げかけに応じて生徒が自分の考えを述べる。この四つを繰り返すことで、生きた知識が身についていくのだと思います。特に手の運動という動作を伴う「書く」は経験上、生物の複雑な現象を理解し、全体像を把握するのに、非常に役立っていると感じています。

 手書きといえば、かつては通知表も手書きで、一人ひとりの顔を思い浮かべて「今学期はよく頑張ったな」とか「中間テストは65点だったのに、期末は37点に落ちているな。どうしたんだろう?」などと考えながら、というより語りかけながら成績をつけていました。

 ところが今は、専用のソフトに点数を入力すれば自動的に評価が計算され、簡単に通知表まで作成されてデータが親元に届きます。成績処理にかかる時間は十分の一に減り、教員の働き方改革としては成功したかもしれませんが、生徒のわずかな変化にはむしろ気づきにくくなりました。

 出欠管理も同じです。昔は生徒の顔と出席簿を突き合わせて手書きしていたので、「この子は最近、昼になると帰ってしまうな」「遅刻が増えたのはどうしてだろう?」といった変化を捉えやすかったのですが、今は各授業の担当者が欠席している生徒名をタブレット上でクリックすれば、すべて自動で処理され出席統計ができあがるため、細やかな目配りが以前よりできなくなっているんです。

――教員と生徒のかかわり方も、課題の一つなんですね。そんな中で、相馬さんが授業で心がけていることを教えてください。

「何かを投げかけて、生徒の思考を促しながら授業を進める」というスタンスは常に変わりません。「これはどういうことだろう」「どうしてだろうね?」などと声をかけつつ、対話をしながら考えを深める。その繰り返しです。学校教育とは、端的にいえば「考える訓練」ですから。

 生物の教員としては、実験を大事にしています。題目と実験方法だけを提示して、「この実験の目的は何か」「実験結果から何を考察するか」は生徒自身に自由に設定してもらうように私はしています。これも「考える訓練」ですね。戸惑う生徒もいますが、そういうときには、ざっくばらんにおしゃべりをしながら「この操作は何のためにしているの?」などと問いかけることで、会話の中から自分なりの答えを見つけ出せるように働きかけます。

 実験の目的が最初から与えられていると、想定通りの結果が出ず、目的を達成できなかったときに、「実験で失敗した。やっぱり理科は苦手」と思い込んでしまうこともあると思います。しかし、目的を自分で設定すれば、想定通りの結果が出なかったとしても、うまくいかなかったという事実の中から、何らかの仮説を引っ張り出そうとするんです。

 それは、まさに科学者の態度そのものです。生徒のそういう瞬間に立ち会えることが、教員という仕事の面白さではないでしょうか。

 

芝浦工業大学柏中学高等学校・勤医会東葛看護専門学校 生物科講師   相馬 融さん  

そうま・あきら  1954年生まれ。筑波大学大学院教育研究科修了、修士(教育学)。公立高校、私立高校、看護学校で40年あまり生物を教え続けている。『大人のための生物学の教科書』(講談社ブルーバックス)では、公立高校のかつての教え子たちと共に著者の一人を務める。

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