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【特集】脳は真面目に文字を読まないけど、やっぱりスゴイ◎中谷裕教(東海大学情報通信学部准教授) 

なぜ人は誤字や脱字を見逃すのか? そそっかしいから? 適当に読んでいる? それは脳と何か関係があるのか? 中谷裕教さんに聞いてみた。 

音声情報と視覚情報で言語認識のメカニズムは変わる? 

 ――脳と言葉の関係についての研究は、いつ頃から始まったのでしょうか? 

 脳のどの部分が言語機能と関係しているかを最初につきとめたのは、19世紀のフランス人医師ポール・ブローカです。現在「ブローカ野」と呼ばれている部位で、ここを損傷すると言葉を話せなくなることを発見したんですね。それが1860年代で、10年後の1870年代にはドイツ人医師のカール・ウェルニッケが、損傷すると言葉が理解できなくなる部位を発見しました。ここが「ウェルニッケ野」と呼ばれている場所です。 

 その後、1990年代以降にfMRIという脳機能イメージング技術ができ、生きた人の脳の活動を観察できるようになったことで、脳のさまざまな機能がわかるようになってきました。言語機能に関わる部位に関しても、「ブローカ野」や「ウェルニッケ野」の周辺には、文法を処理するとか文字を認識するなど、いろいろな部位があることがわかったんです。それらを含めて広義で「言語中枢」と呼んでいます。 

――音声で言語を理解するのと違い、言葉を文字として認識する場合は、視覚から情報が入ってくることになりますよね。そうするとメカニズムも変わってくるのですか? 

 言葉を聞いて理解するのは音声情報、見て理解するのは視覚情報なのでメカニズムは少し違いますが、変わるのは最初の入り口だけです。音声の場合は聴覚野で情報を受け取り、視覚の場合は視覚野が情報を受け取ります。ただその先の言語処理の回路は一緒なんですね。「ウェルニッケ野」や「角回」といった場所で意味のある言葉として理解され、さらに「ブローカ野」に送られて、「ブローカ野」から運動野へ指令がいって言葉として発する。このメカニズムは音声も文字も同じです。 

文字を「文字」として認識するうえで必要なものとは? 

――文字認識は、どのように脳の中で行われているのでしょうか? 

 文字に関わる脳の部位は、左側側頭葉の後方下部にあります。「視覚性単語形状領域」と呼ばれている部分で、見た図形をここで文字として認識します。じつはその反対側には人の顔を認識する顔領域もあるんです。目から入った図形情報は、第一次視覚野を経てこの場所に送られるわけですけれども、例えばこの図形は何に見えますか?(図1) 

【図1】文字の知識があると図形が文字として認識できる。(イラスト・ヒットペン)

――男性の顔に見えます。 

 そう見えますよね。日本人の場合は「顔」と答える人がほとんどでだと思います。ところが英語ネイティブの人に尋ねると「Liar」の文字が見えると答える人が多いんです。 

――え!? 言われてみれば、たしかにそのようにも見えますね! 

 第一次視覚野が顔認識の部位に情報を伝えると「顔」と認識し、文字認識の部位に情報が伝わると「文字」として認識される。つまり、どちらの部位が情報を処理するかによって、同じものを見ても見え方が変わってくるわけです。 

 さらに言うと、無条件で文字を「文字」として認識できるわけではありません。図形を文字として認識するには、意味情報として処理するための事前の知識が必要になります。『こんにちは』の文字を見たとき、それが何を意味しているかはわかりますよね。『Hello』もわかるでしょう。では『नमस्ते』はどうですか?  

 これはサンスクリット語の文字なのですが、サンスクリット語の知識がないと、読み方は「ナマステ」で、「こんにちは」を意味するということがわかりません。 

 意味と対応させないと、文字ではなく図形という認識になって、文字認識とは別の神経回路が働き出します。だから脳が「これは文字である」と認識するためには、文字についての事前知識をもっていることが重要なのです。 

 学習することで知識が蓄積されて、脳の中には「心的辞書」がつくられます。この辞書と照らし合わせて、私たちの脳は文字を認識しているんですね。 

読み違いや文字の見落としが起こるワケ 

――脳の中の辞書と照らし合わせて、きちんと認識しているはずなのに、文字を読み違えたり、誤字や脱字を見落としたりといったことが起こります。これはどうしてですか? 

 その原因は、脳がそれほど真面目に文字を読んでいないからなのです。 

――真面目に読んでいない? 

 これもわかりやすい例があります。ここに和菓子屋さんのお知らせが書かれたチラシ(図2)があります。この文章をパッと見て、どのようなことが書いてあるか内容がわかりますか? 

【図2】日本語の知識が多ければニュアンスを理解できるけれど……。(イラスト・ヒットペン)

――はい。全体的に何を言おうとしているのかわかります。 

 わかりますよね。恐らく皆さん、最初の一文は「皆さまに大事なお知らせ」 と読んでいるでしょう? 実際は文字の並びはデタラメなのに。 

 なぜ読めるかというと、私たちが日本人で日本語の知識がたくさんあるからです。言語に熟達していくと、文字の一部だけを見て脳が勝手に解釈するんですね。 

 この文章を留学生たちに見せると、何を言っているのかさっぱりわからないと言います。知識がないと一つひとつの文字を見て単語として認識し、単語の意味を理解したうえで文章として理解するといったプロセスが必要となります。だから日本語の知識がそれほど蓄積されていない人たちは「この文章はおかしい、読めない」となるんです。 

――たしかに文字をブロックで見て、「みまなさに」を「みなさまに」と勝手に変換して読んでいました。 

 言語に限らず私たちの脳というのは、知識があればパッと見て思い込んで、勝手に情報をつくり、理解してしまうようにできています。できるだけ効率よく情報処理しようとしているのが脳なので、手がかりとなる部分だけを見て、あとは勝手に理解するメカニズムが働くのですね。 

 読み違いや書き間違いをしてなかなか気づかないのも、このメカニズムが働いて、細かいところまで真面目に読んでいないからなんです。でもその代わり、少ない情報でも効率よく情報処理ができるようになっているのです。 

――私たちの脳は、省エネな仕組みになっているのですね。 

 脳はラクをしたいですから。知識がたくさん蓄積されてくると、知識に頼って情報処理をしたほうがラクなので、省エネに走ろうとするんですよ。ですから反対に、脳にラクをさせてあげるには、勉強によって知識を増やしていくことが大切になってくるのです。 

大脳と小脳のコラボによる脳のスゴ技 

――脳の発達進化ということで考えると、文字を認識する部分が発達してきたのは進化のかなり後なんでしょうか? 

 おそらく後からだと思います。コップや水、犬、馬といった名称にしても、時間や空間をあらわす言葉にしても、何かの概念を表現しているのが言葉です。 

 進化の過程で人間は大脳を発達させました。脳の発達において最後に大きくなったのが概念を扱う前頭葉の部位で、概念を理解できる能力を獲得したことで言語を獲得することができたんです。 

 文字という表記手段も、最初は絵で表現していたものを簡略化していく過程で、「この記号はこれを意味するんだよ」と結びつけが進んで生まれてきた。おそらくはそれと併せて、対応する部位も発達してきたのではないかと思います。 

 もうひとつ、2022年の私たちの共同研究で、言語機能には大脳だけでなく小脳も関与していることがわかりました。 

――小脳というと運動と関係しているところですね? 

 運動の制御と運動学習に関わっているところです。何回も同じ動作を繰り返すことで、意識しなくても身体を動かせるようになることってありますね。たとえば車の運転にしても、練習を積んで運転に慣れてくると、スタートキーを押して、アクセルを踏んで発車して、スピードを落とすときはブレーキペダルを踏むという動作を無意識で行っています。練習を積むことで無意識に身体が動くようになるのは、小脳の働きによるものなのです。 

 言語も一緒で、外国語の勉強を始めたときは、意味にしても文法にしても、一つひとつ意識して理解しなければわからない。でも学習を繰り返すうちに、だんだん無意識に理解できるようになっていきますね。ここにも小脳が関係しているのではないかと考えて、fMRIで言語機能における小脳の役割を調べてみたのです。その結果、大脳の「ブローカ野」と小脳の一部がつながっていて文法処理を行っていたり、「角回」と呼ばれる場所とつながって意味の処理を行っていたりすることがわかりました。 

――大脳の言語中枢と小脳が一緒に活動することで、私たちは意識することなく、すぐに言語を理解したり使ったりすることができると。 

 そうです。無意識に言葉を使うことができると会話に集中できて、コミュニケーションはスムーズになりますよね。ヒトの祖先は約700万年前に、チンパンジーなどの類人猿と共通の祖先から枝分かれして進化しました。ヒトの進化の過程ではネアンデルタール人など多くの人種が存在していましたが、生き残ったのは我々の直接の先祖であるホモ・サピエンスだけです。 

 ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より体が小さかったのですが、大きな小脳を持っていました。また、ホモ・サピエンスは他の人種と違って言葉を使えました。ホモ・サピエンスが生き残って大きな社会をつくれたのは、小脳の言語機能があったからではないかと考えているのです。いちいち意識することなく言葉を使ってコミュニケーションできるようになったことで、他の動物よりも優位な立場に立てたのではないかと。 

――日本語の場合、同じ言葉だけれど違う漢字を使っていたりしますね。聞くときも相手の話の文脈から漢字を類推して理解したり、意味を汲み取ったりといった言葉の使い分けを自然にやっていますけれど、それも小脳のおかげなのですか?  

 小脳の機能だと思います。使い分けを学習していくことで、小脳も学習して無意識にできるようになっているのでしょうね。 

いい加減に読んでいるのに理解できるのが脳のすごさ 

――そう考えると人間の脳はやっぱりすごいですね。AIは果たして追いつけるのかなと思います。 

 AIと脳の対比も私が興味をもっている分野です。今は生成AIの一部として、ChatGPTに代表される「大規模言語モデル」という技術が注目を集めていますよね。大規模言語モデルの構造が、脳のどんな言語機能に対応しているかを調べれば、言語メカニズムがもっとわかってくるのではないかと思って興味をもっています。 

 ただ、AIは学習した範囲でしか答えを出すことができません。インターネット上のものすごい量のデータを使って会話はできるようになっているけれど、データがなくなったら学習もできなくなってしまう。 

――いっぽうの脳は省エネ的に、少ない情報で言葉が理解できてしまいます。 

 しかもひらめきみたいなことも起こりますよね。人間って結構いい加減で、間違うこともたくさんあります。でも間違うことで、別の何かが新しく生まれるということもあるんですよ。概念と概念を間違って結びつけてしまったら、結果的にいいものが出来上がってしまったり……。それが発明とか創造につながってきたことを考えると、そこはAIにはできない部分です。新しいものを創り出すことはできない。 

 それからAIの場合、自分で情報を選択することができません。人間は、ある程度知識を身につけると、間違っている情報に対して「これは間違っている」と判断し、正しい情報を選ぶことができます。自分はこう思うから、この情報を取り込もうとか、拒否しようとか選択ができますが、そうした主体性もAIにはまだありません。 

 そもそも概念を理解して言葉を扱えるか、言葉から想像することができるかというと人間の脳のようにはできないでしょう。先ほどの「みまなさに」を「みなさまに」と変換して読むことも、おそらくAIにはできない。いい加減に読んでいるのに、意味をちゃんと捉えることができる人間の脳は、やっぱりすごいと思います。 

文=八木沢由香 

中谷裕教(東海大学情報通信学部准教授)

なかたに・ひろのり 1973年生まれ。東北大学大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。東北大学大学院工学研究科助手、理化学研究所脳科学総合研究センター研究員、東京大学大学院総合文化研究科助教などを経て現職。専門は認知脳科学。共著 『「次の一手」はどう決まるか 棋士の直観と脳科学』(勁草書房、2018年)。 

八木沢由香

やぎさわ・ゆか 1963年東京生まれ。フリーライター。『レッド・ツェッペリンIV』(写真)に収録されているロック史上屈指の名曲『天国への階段』をカラオケで歌うことが仕事より大事。