大女優は赦し、微笑む
好き嫌いを明言して媚びない。でも優しい。これが本書の、いや、この大女優の人生を貫く精神か――。
「女優が好き嫌いなど、言える立場か」などという、昨今のネット族的中傷など、ものともしない昭和の個性。
映画『君の名は』のヒロインとして、21歳でスターとなり、昭和32年、23歳で結婚のために渡仏した著者の交友は広く深い。なかには手ひどく裏切られたこともあり、第1章の「『ベコ』という女性」は、その体験談だが、著者はペコの異常な行動を「人の心はうつろい転じる。そのうつろいの中で、その人らしく変化するものを『裏切り』と取ることも、『浄化する友情』と取ることも自由であり、それは受け取る側の心の斟酌」と捉えて、彼女の老境を案じている。
佐田啓二・三國連太郎・鶴田浩二・萩原健一といった昭和の大スター。小津安二郎監督、作家であり市民運動家の小田実、瀬戸内寂聴、ノーベル賞作家の川端康成、プロレスラーの力道山などといった錚々たる人物が登場する。
驚いたのは、中曽根康弘、石原慎太郎との交友。この二人は、著者の価値観とは真逆の存在だと思えるが、中曽根の教養は深く、気配りのできる大人。そんな中曽根を称賛する、パリの粋なホームレスと著者の会話も見事だ。著者は相手の人間的な弱点もきちんと観察しつつ、長所を見出して讃えている。が、決して相手に媚びない。無粋な政治家の類は軽蔑する。
著者の原点を見るのが、若い頃から共演していた美空ひばりを語るところ。著者が知らなかったひばりの歌に『一本の鉛筆』(松山善三作詞)がある。子ども時代を戦争に奪われた著者は、横浜空襲で九死に一生を得た。それは2021年に著した『岸惠子自伝』(岩波書店)に詳しい。同書には、渡仏の経緯、フランス人の夫との間に生まれた娘を受け容れなかった祖国・日本への憤り、自身が作家・ジャーナリストへと成長する過程が活写されている。この体験が、87歳で『マンゴーの樹の下で』(NHK)に出演した侠気の源泉か。
本書の小津安二郎の章で、24歳での渡仏の件が詳述されている。極秘のはずがゴシップとなり、主演していた映画『雪国』の撮影が中断に追い込まれた。現在ならばネットでの誹謗中傷で大騒ぎになっただろう。
三年前に詳細な『岸恵子自伝』(今年5月、文庫版も刊行)を著した著者が、なぜ本書を著したのか。本書に登場する著名人の多くはすでに故人。そして著者も8月で92歳。心身の衰えと、国籍を異にする娘・孫、世界の未来を案ずる思い、現状を憂う心情が終章に綴られている。
著者は先立った知人・友人を全てを赦し、自らの魂を鎮めつつ、人生の終末を静かに受け容れる思いがあるのではないだろうか? 『自伝』の文庫版の表紙のポートレートは、若い頃の、顎を昂然と上げた表情。が、本書の表紙は、穏やかに微笑む高齢の姿だ。高齢者向きのレイアウトにも、配慮を感じる。
『91歳5か月 いま想うあの人 あのこと』
岸惠子 著
幻冬舎 1600円(税別)
いけがみ・しょうじ 1960年、静岡県旧清水市三保生まれ。東海大学大学院中退。専攻は日本史。現在、熊本市西区の日蓮宗寺院、本妙寺住職。ループタイは20代から愛用。